6. 釈然としない中でも
釈然としない中でも、彼はひとつの結論に辿り着いた。
リリィという少女は存在する。ただし、それは日誌の中でのみ。
ルカレッリによるトマゾ修道士の日誌についての補足の中で、トマゾがどこでリリィと会っていたのかわからないという記述があった。加えてペテロは今回のことから、彼はそもそもリリィと面会してなどいないのでは、という考えに至る。彼女はあくまで日誌の中にのみ姿を現す、怪異のようなものなのではないか。
ペテロ自身が書いたと思われるリリィとの会話。無意識のうちにありもしない場面を記述させられていたことへの恐怖は抱いたけれど、紙面から伝わるリリィの存在それ自体には、不思議と悪意のようなものは感じなかった。むしろ、二転三転するルカレッリの不安定な態度の方が、ペテロには不審に思える。
そう、ルカレッリだ。
リリィの示唆。それは若き修道士にルカレッリへの猜疑を抱かせるに十分であった。
ルカレッリはリリィの存在を知っている。
その決定的な証拠は、彼の発言の中にある。なぜならば、ペテロに日誌をつけるよう促したのは、他ならぬルカレッリ自身なのだから。彼はリリィが日誌の記述にしか現れないことを知っていて、彼女の記述を読むためにペテロに日誌を書かせ、それを読ませるよう求めたのではないか。
いや、正しくは、彼も「リリィが日誌の中にしか現れない存在である」という仮説に行きついたのだろう。だからこそ、ペテロの日誌を読んであれほどまでに取り乱した。
するとひとつ、疑問が残る。
「ルカレッリ先生はどうしてリリィを探しているんだろう?」
あの子はいったい何者なのか。
なぜあれほどまでにルカレッリはリリィを探し、同時に存在を否定しているのか。
ペテロはそれを知りたいと思った。それがこの病院に巣食う悪意と直接的な関係を持っているかどうかはわからないけれど、真実に辿り着く足掛かりになることは間違いない。
ルカレッリが足音高く処置室を立ち去ってから、ペテロも聖バシリオを後にしていた。借りている患者記録は持ったまま。本来なら返却しなければならないのだが、その時はペテロも頭に血が上っており、返却のためにルカレッリの顔を見たくなかったのだ。
そこで、僧房に帰り、患者記録の続きを読むことにした。
本病院から精神病棟が移転する直前の、最後の記録に手をつけた。リリィという名前。少女の入院記録を探し求める。
「……あ」
文字に這わせた指が止まる。ペテロの目はゆっくりと見開かれ、とある名前を凝視した。
「見つけた」
しかし、それはリリィの名ではない。
アダルジーザ・ルカレッリ――エラルド・ルカレッリ医師の母の名前であった。
***
日付は今から二十数年前の、とある夏の日を指している。
アダルジーザ・ルカレッリは重度の強迫症を患っていた。彼女を捕らえている強制思考は、「自分は罪を犯した悪人であり、罰を受けなければならない」というものであったらしい。原因は断定されていないが、最も関連があると考えられているのは、長女の流産だ。アダルジーザには既にエラルドとリオネッロという二人の息子がいたが、三番目に授かった娘は生まれてくることが叶わなかった。そのことが彼女の心を蝕み、罪悪感から強迫症へと発展してしまった。
日常的な自傷行為のみならず、自殺衝動も抱えていたアダルジーザ。彼女は聖バシリオ病院の精神病棟に入院することとなり、芳しい回復傾向も見られないまま、数年間をそこで過ごすことになる。
四十半ばという彼女の人生は、他の多くの犠牲を伴って幕を閉じた。
その日、アダルジーザの二人の息子が見舞いに訪れていた。彼らが帰ってから数時間後。日没を迎えた病棟に鮮やかな赤が灯る。
当時は本病院の看護師が定期的に巡回に行くのみで、離れになっている精神病棟に常駐する職員はいなかった。精神を病んだ入院患者が奇声を上げること、それ自体は珍しくなかったため、助けを求める絶叫に耳を貸す者もいなかった。
看護師が精神病棟での出火に気が付いたのは、患者たちの多くが煙で燻された後だった。既に火の手が回っていることは外観からも明らかで、病院関係者たちは消火を試みることすら諦めていたという。
結果、精神病棟の入院患者たちは、堅牢な扉に阻まれて脱出することもできないまま、病室の中で焼け死んだ。
翌朝の降雨により、炎は漸く消し止められた。
病棟の移転計画が持ち上がったのは、事件から間もなくのことであった。修道院の敷地を借用する形で移設され、焼け残った資材の多くがそのまま流用された。中でも、重傷者病棟を隔離するあの重厚な金属扉は、当時の事件の悲惨さをそのまま物語っている。
定かではないが、この火災の出火元はアダルジーザの病室であったと噂されている。
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