5. デルフィーナの予言から一週間
***
デルフィーナの予言から一週間、いや、もうじき二週間経つ。ペテロは彼女のことを思い返すと腹の中で苛立ちが渦を巻いたが、表向きにはそれを隠し通した。ルカレッリにも何も報告しなかった。
釈然としないデルフィーナとの謁見は、ペテロを一層努めさせた。聖バシリオ精神病棟に巣食う悪しきものの正体を見定めるため、その鍵となるに違いないリリィについて明らかにするため、これまで以上の時間を調べものに打ち込んだ。もちろん、成果は上がらなかったが。
ところが、進展は向こうから訪れた。
それも最悪な形で。
「ふ、フラ・ペテロ!」
耳馴染んだ声が自分を探していたので、ペテロは調べものから顔を上げた。読んでいたのは歴代の入院患者の記録だが、ルカレッリの仕事を邪魔してはいけないと、処置室を読書部屋に借りていたのだ。
ルカレッリはノックもせずに扉を開けた。慌てた顔で、手には紙束を持っている。
「どうしました、ドットーレ……それは、わたしの日誌ですか?」
この二週間分の日誌をルカレッリに提出していたのだ。ルカレッリは質問には答えず、ペテロに詰め寄ると握り締めた日誌を突き付けた。
「どういうことですか、フラ・ペテロ? なぜ僕に黙っていたのです? こんな……こんな重要なことを!」
「……は。え?」
ペテロは目を瞬いた。対するルカレッリの剣幕は、普段の飄々とした人柄からは想像もできない。
「ど、どういうことですか?」
ルカレッリの瞳には怯えた兎のようなペテロの顔が映っている。彼は年若い修道士を脅かしたことに気が付いたのだろう。僅かに身を引き、荒げた呼吸を抑え込んだ。
「……リリィですよ」
「はい? トマゾ修道士の日記に出てきた少女ですよね。その子がどうかしましたか?」
「どうかした、ですって? フラテッロ、あなた――」
瞳に苛立ちの色が過る。ペテロは慌てて両手を突き出した。
「すみません。調べてはいるんですが、まだ何の成果も上がらなくって――」
両者は束の間見つめ合った。互いに何かがおかしいと、なぜ双方の話が通じないのかと疑問を抱いたらしい。ルカレッリは静かに手を下ろし、ペテロの手に日誌を握らせた。
「フラ・ペテロ……あなたは僕に隠れてリリィに会っていたのですね」
「え?」
「まだしらばっくれるおつもりですか。ご自分で記したくせに」
「え、いや、ちょっと待ってください。あの子に会った? わたしがですか?」
「そうですよ。だってあなた、ご自分でそう日誌に書いているじゃないですか」
その瞬間、何か恐ろしいことが起きたのだと、ペテロは悟った。指先からサッと冷たくなり、全身から血の気が引いていく。それなのに、日誌を持つ掌には汗を掻いていた。
「わたしが……日誌に?」
ルカレッリの表情も恐怖に強張っている。ペテロが嘘を吐いていないことを理解してしまったのだ。二人はギリギリと音を立てそうなほどゆっくりと、折れて皺の寄った紙束に視線を移した。
互いが唾を飲む音が聞こえる。
ペテロは恐る恐る日誌を開いた。
***
【 四月二十九日 】
(略)
デルフィーナの部屋を後にしたところで、小さな影に呼び止められました。顔を向けると、リリィが自分の病室から半分顔を覗かせています。彼女が手招きしていたので、わたしは少し悩みましたが、彼女の話し相手になってやることにしました。
「こんにちは、修道士さま。魔女のおばさんに意地悪言われなかった?」
リリィはトマゾ修道士の書いていた通り、白いワンピースを着ていて、大変可愛らしい子でした。ベッドの上に腰掛け、ぱたぱたと足を動かしています。
「意地悪なんて言われないよ」
「そうなの?」
わたしは彼女の隣に腰を下ろしました。少女ひとりでは音も立てなかったベッドが、ギシリと苦しそうに沈みました。
「調べものはどう? 進んだ?」
わたしは溜息を殺して首を振ります。
「全然。君の正体を知りたいのに、どこにも見つからないんだ。そろそろ本病院の頃の記録を読み終わるんだけどね……」
「大変ね」
リリィがあんまり他人事のように言うので、わたしは恨みがましい気持ちで眉を顰めました。
「君が自分から教えてくれれば、こんなに苦労しなくて済むんだよ」
「あら。あたしは隠れたりしてないわ。ちゃんとここにいるじゃない」
「そうみたいだ。でも、わたしは君の正体を知りたいんだよ」
リリィは首を傾げて考える素振りをすると、くすくすと笑い始めました。
「だったら、お医者さまに聞いてみたら? あの先生ならあたしが誰だか知ってるわ」
「は」
わたしは思わず目を見開きました。
「ルカレッリ先生が?」
「ええ、そうよ。あの人は知ってるわ」
「そんなはずない。彼はトマゾ修道士にも知らないと言ったそうだし、この病棟に子供が入院したことなんて――」
「いいえ、修道士さま」
リリィがわたしを遮ります。白い指を突き付けて。
あの子はわたしに言うのです。
「ルカレッリ先生は一度も『知らない』なんて言ってないわ。『そんな子は存在しない』としか言っていないはずよ。あの先生はあたしのことを知っている。知っていて、否定しているの」
***
ペテロは呆然と顔を上げた。
読んでいたはずの日誌は取り上げられている。ルカレッリは唇を引き結び、目を見開いたまま、取り上げた日誌を破り捨てた。
「……どういうことですか」
見間違えるはずがない。その字は、確かにペテロ自身のものであった。
「こちらが訊きたいんですよ、フラ・ペテロ」
やはりルカレッリは怒っている。だがもはや、ペテロにとってはどうでもよかった。彼には書かれていた内容の方が重要だったのだ。
「ドットーレ。あなたはリリィが何者だか知っているのですか?」
「フラ・ペテロ!」
ルカレッリは怒鳴った。しかし、すぐにしまったという顔になり、辛抱強く感情を抑える。
「すみません、声を荒げるつもりは……ですが、フラテッロ。これはあまりにも悪質です。あなたは例の少女について僕に揺さぶりを掛けるために、わざとこんな虚偽の日誌を記したんですね。こんなことはしてほしくなかったですよ」
ペテロは瞬時に彼の言う意味を理解できなかった。一呼吸空け、自身が誤解されたことに気付く。
「違います!」
「はじめは本当にあなたがリリィに会ったのかと思いましたが……違いますね。これは全部あなたの狂言だ、フラテッロ」
「違うと言ってるじゃないですか! ドットーレ、これは――……っ!」
リリィが、自分に書かせたものだ。
ペテロは確信していた。けれど、それをどう信じさせればいい?
結局、彼は何も言わなかった。謝ることも、認めることもしなかったが。ルカレッリはそんなペテロの様子を見て苛立ちを募らせていたが、埒が明かないと思ったのだろう。やがて、踵を返して出て行った。
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