2. 「あなたも記録をつけておられますか?」

「フラ・ペテロ。あなたも記録をつけておられますか?」


 その日の慰問が終わった帰り、ルカレッリが訊ねた。二人は修道院の敷地に通じる門のところに立っていた。


「記録ですか?」

「ええ。フラ・タダイもフラ・トマゾも日誌をつけておいでだったので、あなたはつけていないのかなと思いまして」

「あー、実は」


 ペテロは後頭部を掻いた。


「つけた方がいいことはわかっているのですが、そこまで手が回らなくて……」

「熱心に調査してらっしゃいますもんね」


 でも、とルカレッリは眉を顰める。


「つけておくべきだと思いますよ。短い記録でいいですから。後のためにも」


 付け足された言葉の空恐ろしさに背筋に冷たいものが走ったが、ペテロは顎を引いて頷いた。


「そうですよね。わかりました」


 タダイもトマゾも、彼らの日誌が謎を解く手掛かりになっている。後継者であるペテロにも、同じ悲劇が降り掛からないとも限らないのだ。後のためにとは、言い換えれば、ペテロの身に何かあった時のためにという意味だ。


 人身御供みたいだな。

 ルカレッリと別れ、菜園を横断しながら、ペテロは自暴自棄に考えた。

 ひょっとして、修道院長はそれで自分を新任に選んだのだろうか。まだ若いペテロなら、どんな目に遭っても構わないと――いや、尊敬する方に対してそんな邪推をするのは間違っている。首を振り、嫌な考えを振り払った。


 写字室スクリプトリウムに足を運ぶ。

 慰問の時間だけ免除されているが、ペテロも写字生の一人だった。修道院では、教会や貴族からの依頼を受けて写本を作っている。印刷技術が登場した現在であっても、手作りの写本には需要があった。それは信仰心の篤さを示すためであり、一方で自身の資産を誇示するためでもあった。

 写本作りはすべて手作業で行われるから、一冊の本ができあがるのに数ヵ月、時に年単位の時間が掛かる。工程は分業制で、少なくとも文字を書く者、挿絵をつける者、製本をする者が関わることになる。そのうちペテロが担当するのは文字を写し書くことだ。


 早速自分の作業台に向かい、見本となる書物を広げた時だった。軽く肩を叩かれる。


「ペテロ、少しいいかね」


 シモーネ修道司祭だった。ペテロは恭しく頭を下げた。


「なんでしょうか」

「お前に手紙が来ているよ。ほら」


 ローマからだった。差出人はフレド神父。

 待ちかねた返事が届いたと気付き、ペテロの心臓が跳ね上がる。ところが、そんな彼の興奮を諌めるように、シモーネは険しい表情を浮かべていた。


「お前は最近熱心に調べものをしているね。その用件だろう?」

「はい、そうですが」

「トマゾ修道士が亡くなったことをつらく思う気持ちはわかる。だが、余計なことを考えることはやめなさい。お前の仕事は病人たちを見舞うこと。病人たちの話に耳を傾けることだ。それ以上はお前の領分ではない」


 ペテロは驚いて彼を見つめた。


「シモーネ修道司祭は、聖バシリオでの件について何か思うところがあるのですか?」


 するとシモーネは、伸びた眉毛の下で目を泳がせた。


「お前の考えているようなことは何もないよ」

「ですが――」

「ペテロ」


 彼はペテロの言葉を遮り、袖を引いて画材置き場へと誘った。その狭い部屋に二人して身を隠すと、誰も見ていないことを確かめてから、シモーネは声を抑えて話し出した。


「お前はタダイとトマゾの死に疑問を抱き、その真相を探ろうとしている。相違ないな?」

「はい」


 ペテロは勢い込んで訊く。


「やはり、修道司祭も何か思うところがあるんですね」

「……ないことはない。だが、触れてはならぬと感じている」


 彼は疲労に満ちた溜息を吐いた。


「ペテロよ、私は何も知ってはいない。ただ直感的によくないものを感じ取っているだけだ」

「よくないもの、ですか」

「人を破滅に追い込むものだ」


 再び口を開こうとしたペテロに、シモーネは制止するよう手を上げた。


「それは必ずしも悪魔のように人に憑りついて支配するものだけではない。人の内から蝕むものの方が、この世界では余程人々を苦しめ、惑わせているのだよ」


 ペテロは黙って眉を顰めた。シモーネが二回目の溜息を吐く。


「欺瞞、傲慢、強欲、羞恥心、猜疑心、嫉妬心――そして、時には過剰な愛情や、罪悪感。人間の内から湧き出すありとあらゆる感情が人々を揺さぶり、破滅の道へと振り落とすのだ」

「罪悪感?」


 ペテロが首を傾げる。


「ですが、罪悪感は人間の善性の表われです。改悛に繋がる貴重な神の贈り物ではないですか」

「それはな、ペテロ。お前がまだ若く清らかで、何の罪も犯したことがないからだよ」

「どういう意味ですか?」

「そのままの意味だ。お前にはまだわからないが、わからないままでいてほしいとも思う。老人の世迷言だよ、忘れてくれ」


 シモーネは首を振りながら、ペテロの両頬を手で包んだ。ペテロはそれを拒まなかったが、ハリのない皮膚と温い体温が、貼り付くようで気持ち悪いと感じてしまった。


「……私は反対したのだ。修道院長だって、この任を引き受けたくはなかった」

「え?」

「慰問の話だ。二人も大切な仲間を亡くしたのだ。それも、決してあの病棟に行くことが無関係とは思えん……だが、『患者のためだ』と言われれば断れなかった。形のない恐怖に怯えることよりも、病に苦しむ患者たちを救うことこそが、我らにできる使命だからだ……」


 やはり、修道院長は慰問の継続を渋ってくれていたらしい。ペテロは人身御供だなどと考えた己を恥じた。

 そんな彼の胸中は知らないだろうが、シモーネは愛情込めてペテロの肩を叩き、スクリプトリウムへと戻っていった。


「決して無理はするでないぞ。お前の身が何よりも大切だ。私でできることがあれば、いつでも。なんでも相談に来なさい」


 という、励ましの言葉を残して。

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