第二部

1. 修道士ペテロは手紙を脇へ置いた

 修道士ペテロは手紙を脇へ置いた。まだ若いその顔は物思いに沈んでいる。どこからか風が吹き込んで、燭台の火が一斉に揺れた。羊皮紙を埋める几帳面な文字を影が舐める。

 改めて、トマゾ修道士の日誌を手に取る。もともと紐で束ねられていたものを、ルカレッリ医師が必要な部分だけ抜き出してまとめ直したのだろう。隅に開けられた穴の縁は擦り切れているのに、束ねる紐だけは新しかった。


 修道院長からの打診が自分に回ってきたことは、ペテロには意外であった。ペテロはトマゾよりもさらに若い。終生誓願を立て、修練士の肩書が取れたのは、まだほんの数年前のことだ。老練のタダイですら勤めきれず、後任のトマゾもまた悲劇の最期を迎えた、聖バシリオ精神病棟への慰問という役目。次に任されるのは、再び年長の僧になるだろうと思っていた。

 ひょっとすると、若さゆえのバイタリティのようなものを買われたのかもしれない。若年のペテロは勤勉さでは皆に劣るが、何事にもやる気――言い換えれば、未知への好奇心のようなもの――だけはあった。前任、前前任の二人とは性格の傾向が違う。同じ轍は踏まないだろう。

 タダイもトマゾも自分にも他人にも厳しい人であったから、そんな彼らが精神病患者との触れ合いによって思い悩み、自死という道を選んでしまったのは、何も不思議なことではない、とペテロは考えていた。

 もちろん、それが自然な死であったならばの話だが。真実はどうも違ったらしい。


 ルカレッリ医師は、新任としてやってきたペテロを見ると、一瞬表情を強張らせた。その目に過ったのは失望か。憐憫のように見えたのは気のせいだっただろうか。


「ペテロです。よろしくお願いします」


 そう言って差し出された手を握り返すのに、ルカレッリは一呼吸遅れた。


「これまたお若い方だ。お勤めに熱心で素晴らしいですね」

「ええ。わたしでも役に立つことがあるなら、喜んでお力になりたいと思いまして」

「ありがとうございます。では、まずは病棟の中をご案内しましょう」


 初日はそれで終わりだった。


 ルカレッリから小包が届いたのは、慰問を引き継いでから一ヵ月程経ってからのこと。不意に寒さが鳴りを潜める、三月も半ばのことだった。

 届けてくれたのは看護師だった。修道院の敷地を横切ってくると、ペテロのいる僧房を訪ねた。看護師も包みの中身は知らされていないようで、なぜわざわざ使いを寄こしたのかという質問には答えられなかった。


 それから日誌と手紙を読み耽り、気が付けば夜も更けていた。晩鐘すら耳に入らなかった。終課の礼拝に行きそびれてしまったので、明日叱りを受けるかもしれないが、今はそんな心配をしている場合ではない。ペテロの関心は日誌の内容だけに注がれている。


 トマゾの死。タダイの死。二人の死は、やはり不運な事故だと知らされていた。それが、こんな形で真相を知ることになるなんて。不可思議さに恐怖を抱くと共に、湧き上がるのは好奇心。不謹慎だと思いつつ、抑えることはできそうにない。


 なぜ二人は死ななければならなかったのか。

 二人の死体に工作を加えたのは何者なのか?


「この病棟には悪しきものが蔓延っている」――それは悪魔憑きの話に登場したエクソシスト、フレド神父の言葉だ。彼の言うことは本当なのか?


 ペテロは早速ペンを取った。インク瓶にペン先を浸し、紙に文字を書き付けていく。宛先はローマのフレド神父だ。

 手紙を書き終えて床に就く。その夜はいくばも眠れなかった。



 翌朝からペテロは行動を開始した。

 あえてルカレッリに詳細を訊ねることはしなかった。きっと彼はそれをしてほしくないから、わざわざ人を使ってあれを寄越したのだろう。ペテロにもそれくらいの意図は読めた。


 フレド神父からの返事を待つ間、できる範囲で調査を進めておく。


 まず気になるのはリリィのことだ。トマゾとタダイが目撃し、ルカレッリがその存在を否定した少女。彼女のことが妙に引っ掛かっている。

 リリィとは何者なのだろうか。ルカレッリは否定したが、やはり彼女はこの病院で死んだ患者の霊なのではないか。トマゾには人ならざるものを見る能力があったようだし、ずっと昔の患者であるなら、ルカレッリが把握していないだけという可能性は十分にあり得る。


 リリィの正体を探るため、ペテロは二つの方法を試すことにした。一つは、ルカレッリの部屋にあるという患者の記録を遡ること。二つ目は、病棟内でトマゾがリリィと会談していた場所を探すことだ。

 早速、慰問に訪れた帰りに、ルカレッリに患者の記録を読む許可を求めた。彼は大層渋ったが、最終的には許可してくれた。


「ただし、閲覧は必ずこの部屋ですること。持ち出しは禁止です」


 重要な記録であるから当然だ。ペテロは素直に条件を呑んだ。

 リリィが入院していた時期がわからないため、病院の創立まで遡る必要がある。途方もない数だ。いくら写本制作で書物に慣れているペテロでも、この作業はかなり骨が折れる。


 その傍ら、暇を見つけては丹念に病棟内を調べて回った。トマゾが通っていた時期に空いていた病室を検めたり、廊下の壁を隅から隅まで叩いてみたりした。また修道院の方でも、病棟に関する記録を求めて資料をひっくり返している。


 精力的に活動したペテロだが、一ヵ月経っても、芳しい成果は得られないままだった。


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