Ep.10 修道士トマゾの日誌

最後の記録

【 十二月十七日 】


 すべてを疑え。

 すべてを信じろ。

 相反する二つの導きを前に、私はどちらの道を歩むべきか決断できずにいる。


 タダイ修道士はあの奇妙な夢の中で私に言われた。私の目は曇っているのだと。すべてはまやかしに過ぎず、悪魔の手の平で踊らされていることに気が付くように、と。

 デルフィーナ・インセーニョは私に言った。私の心は疑い深い。私は猜疑心から身を滅ぼすのだと。師を疑い、友を疑い、自分までもを疑って、最後には神を裏切るのだ、と。


 ルカレッリの計らいにより、私は修道院長に三日間の謹慎を命じられた。私は極度の疲労状態から突発的に錯乱してしまったのだ、と説明がなされたようだ。

 その時には私の視力は完全に回復しており、私は憐れみの目を向けるルカレッリ医師と悲嘆に暮れる修道院長の顔をこの目に焼き付けなければならなかった――あんなに悲しい眼差しは、見たくなかったのに。

 今や、私を見る彼らの眼差しは、精神病患者に向けるソレとまったく同じであった。


 自室に籠る三日間、私はただひたすらに祈り続けた。

 主よ、私はどうしてしまったのでしょうか? 私が信じられるのはもうあなただけです。どうか、罪深いこの私をお導きください。

 しかし、主が私に応えてくださることはなかった。


 謹慎が明けた今日。

 自室から出た私は絶望した。そこはもう私の知る世界ではなくなっていた。

 目の前を怪物が横切っていく。怪物は私の父の姿をしていた。母の姿をしていた。記憶にあるあのままの姿で。絞首刑に掛けられた、あの日の服装のままで。

 彼らは私に挨拶するために立ち止まる。聞こえた声から、それが父でも母でもなく、同じ修道院に暮らす修道士たちだとわかった。けれど、こちらを向いた彼らの顔は、やはり真っ黒に塗り潰されている。


 私は嘔吐した。母の顔をした誰かが水の入ったコップを差し出してくれた。痛烈な渇きに耐え兼ねてそれを飲み干すと、水は口内で蛆へと変わった。ヴァレンティナの死体を食い散らかしていた、ぶよぶよと太った蛆虫の群れに。

 堪らず吐き出したが、床に飛び散ったそれは蛆などではない、ただの水であった。水溜まりに映る私の顔は、やはり悍ましく変貌していた。眼窩はぼっかりと大きく抉れ、赤黒い肉がはみ出していた。その様は、トビア・アデージの死顔を彷彿とさせた。


 私は絶叫する。


 嗚呼、そうだ。

 あの時私がトビアの言葉を疑っていたら。

 十字架を祈りに使うのだという彼の言葉を疑ってさえいれば、彼は自分を殺さなくて済んだかもしれないのに。

 やはり、すべてを疑って然るべきなのだ。我が師、タダイの言葉が正しい。私の目は悪しき者たちによって曇らされている――目を、開かなければ。


 そう。

 ここは神が治める世界ではない。悪魔が支配する世界だ。

 リリィの話を思い出す。世界には表と裏の二つの世界があって――その裏側の世界こそ、悪魔が治めるこの世界に他ならない。

 私はどこかのタイミングで裏側の世界に来てしまったのだ。それはいつのことだろう。あの恐ろしいほどにはっきりとした夢を見た時か。それとも、もっとずっと前からだったのか。


 リリィ――聖母の花を騙る少女よ。

 君は天使だったのだろうか。悪魔だったのだろうか。

 元の世界へ帰ることができたら、きっと君を見つけてあげよう。君が教えてくれた遺骨の場所を、私は確かに覚えている。

 見慣れた粗末なベッドの上に、君はいない。代わりに横たえられていたのは、少女の背丈ほどもある巨大な十字架であった。


 主よ、お赦しください。

 偽りの世界より戻るためとはいえ、私は禁忌を犯すことになります。

 私はこの世界のすべてを疑い、ただひとつ信じるあなたのもとへ帰ります。


 私はベッドに上がり、十字架を起こした。膝立ちになれば何とか頂点を覗き込める高さだ。私は十字架に腕を回す。そしてそれを――抱き締めた。悪魔に曇らされた眼球を貫くように。

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