9-2

【 十二月十三日 】


 私……私はどうしてしまったのだろう。自分が怖い。どういうことなのか、もう何もわからなくなってしまった。



 私は再びデルフィーナ・インセーニョの病室を訪れた。私が丸椅子に腰掛ける間、デルフィーナは案内で付いてきたルカレッリにこう言い付けていた。


「あと十分したら迎えにきておくれ。きっかり十分だ。十一分じゃあいけないよ」


 その時は、それが何のための指定なのか理解できなかった。


 私が信じられない思いで昨晩の出来事を報告すると、デルフィーナは顔をくしゃりと歪めて笑った。眼尻に沢山の皺が寄る、印象的な笑みだった。


「あたしの話を聞く気になったかい?」

「……はい。ですが、信じるとは確約できません」

「そうだろうね。あんたは疑い深い人間だから」


 彼女はそう言って居住まいを正した。


「――あんた、目が見えなくなっているだろう?」


 私はもう驚かなかった。「ええ」と短く答えたと思う。彼女の言う通り私は疑い深い人間だから、彼女の過去や未来を見通す能力を完全に信じた訳ではない。とにかく一旦は耳を傾けてみることにしたのだ。

 とは言ったものの、次のデルフィーナの予言は予想の範囲外であった。


「その目は凶兆だ。あんたはもうすぐ過ちを犯す」

「それは……」

「殺すのさ――自分自身をね」


 私は恐怖か驚愕か、どちらを浮かべるべきか決め兼ねて、ただ困惑した。


「私が?」

「信じられないかい? 自分が自殺なんてするはずがないと」

「当然です。それは教義によって厳格に禁じられていますし、何より私には命を絶ちたいと思う理由も無い」


 するとデルフィーナは小さく笑いだした。まるで喜劇でも楽しむような軽やかな調子で。


「ほらね。やっぱりあんたは信じない。何事にも疑いから入るんだ」

「何がおかしいんです? そんなことはあり得ないと私が一番よくわかっているというのに、その私が自殺をすると言われたのです。信じる訳がないでしょう」

「そりゃあね……だけど、あんたはその疑いの心によって身を滅ぼすことになるんだよ」


 私はハッと息を呑んだ。彼女の目の色が変わる。デルフィーナはそうだと口を動かしながら、ゆっくりと一度頷いた。


「疑いの心はあんたの呪いさ。自分でもわかっているはずだよ。その目は猜疑心の現れだ。あんたは今に何も信じられなくなる。すべてを疑い、最後には自分すらも疑って……」


 そして――私は自分を、殺すのか?


 私は震えていた。デルフィーナの言葉は封印したはずの私の心の奥底を、いや、見て見ぬふりをしようとしていた私の恐怖の根源を鋭く言い当てていたから。手の平にはじっとりと汗が滲み、視界が少しずつ傾き始めていた。その激しい動揺の中に、吊るし首になった両親の死顔が浮かんだり沈んだりを繰り返していた。


 私がどうして疑い深くなってしまったのか。すべては私の生い立ちにある。

 両親が役人に連れて行かれた日に、私は疑うという行為を知った。このパンを買った金はどこから来たのか。この服は本当に買ったものなのか。昨晩家に泊めた旅人はどこに行ったのか。私の両親は――……。

 私は疑う心を捨てたいと願った。信仰の道を歩んだのは、単に身寄りが無くなったからだけではない。信じるということを思い出したかったのだ。何かをもう一度疑いなく信じることによって、自分が救われたかったのだと思う。


 結局、今日に至るまで、私は疑いの心を捨てきれていない。だが、私の恩師たちはそんな私の欠点を否定しはしなかった。むしろ、それは学者としての素質だと肯定的に受け入れてくれた。私はそれに慰められ、勉学に励むようになった。


 けれど。

 やはり、疑いの心は私を殺すのか。

 何もかもを疑って、自分すらも疑ってしまう私は、支えとする神の教えまでも疑い、犯すのか?


「……どうすればその未来を変えることができるでしょうか?」


 訊ねる声は酷く掠れていた。デルフィーナは素っ気なく肩を竦めた。


「簡単なことさ。すべてを疑ってしまう結末を変えたいのなら、すべてを信じればいい」


 それは本当に、簡単なことに思えた。目から鱗が落ちるような思いとはこのようなことを言うのだと、私は呆然と目を見張っていた。

 私は疑うことをやめられていない。私の中に眠る根源的恐怖はやめようと思ってやめられるものではなかったのだ。であれば、疑うことをやめようとするのではなく、信じればいい。私が信仰の道へ進み、神を信じることにしたように。


 私はデルフィーナに信頼の眼差しを向けた。

 彼女を信じよう。今の私が顔を見分けられるのは彼女だけだ。それはきっと何か意味のあることに違いない、とその時は思ったのだ。


 ところが、次の瞬間。

 すぐ目の前にあったデルフィーナの顔が、変貌した。


 輪郭から真っ黒いものが皮膚を蠢き、みるみるうちに彼女の顔を覆った。インクが染みるように触手を伸ばして。鼻も、口も、無くなった。双眸だけは最後まで残ったが、それも終いには塗り潰される。

 真っ黒な顔面に浮かんだ、黒く大きな穴が二つ。虚無を湛えて私を凝視していた。


 私は悲鳴を上げた。

 悪魔だ。彼女こそ、悪魔だったのだ。

 私は瞬時に確信した。

 誰一人顔が見えないにもかかわらず、たった一人顔が塗り潰されることがなかった。それは彼女が特別な存在だからではない。彼女が人ではなかったからだ。


 気が付いた時には、私はデルフィーナの首を掴んでいた。

 危うく悪魔を信じるところだった。私の心の弱さにつけ込み、私を意のままに操ろうとしていたのだ!


 あの感触を鮮明に覚えている。私の手は冷え切っていて、それだけに彼女の体温が炎のように熱く感じた。彼女が唾を呑むたびに、私の手の中で喉がぬるりと動いた。まるで別の生き物のように、ぬるりと。指はしっかりと彼女の皮膚に食い込んでおり、薄く柔い肌の下にある肉の筋を感じることができた。

 悪魔を殺さなければ。その一心で私は彼女の首を絞めた。塗り潰された顔からは何の表情も窺えず、彼女がちゃんと苦しんでいるのか、正しく気道を絞められているのか、私には判断できなかった。だからただ、ひたすらに力を込めた。


 ルカレッリが病室に飛び込んできたのはその時だった。私は赤黒く染まった世界で彼の叫び声を聞いた。私の目には、もはや人の形をした黒い塊しか見えていなかったが、ルカレッリが私の腕を掴んだということはわかった。


「フラ・トマゾ!」


 その一言で、私は我に返ったのだった。

 視界が晴れていた。赤黒い覆いはもう無かった。私の視界は正しい色彩で以って、咳き込むデルフィーナと彼女を介抱するルカレッリの後ろ姿を映し出していた。


「修道士さま、いったい……いったいあなたは何をしようとしていたんです!」


 ルカレッリが私に言う。その声音は明らかに私を責めていた。そして、久しぶりに見るルカレッリの顔は、驚愕と困惑で歪んでいた。

 私は何か言おうと口を開いたが、言葉はうまく出てこなかった。

 はっきりとわかっていたのだ。デルフィーナ・インセーニョは悪魔などではない。ただの占い師であって、私は今まさに彼女の予知通り、重大な罪を犯そうとしていたのだ。


 幸いデルフィーナの命に別条は無かった。顔はうっ血して赤くなり、喉には私の指の痕が痣となって残ってしまったけれど。私が地に伏して謝罪すると、彼女は苦しげながらも微笑み掛けてくれた。


「ドットーレに感謝しな。彼がちゃんと時間を守る人だったことにね」


 ルカレッリは私に詳しい事情を聞きたいと言ったが、私は到底話ができる状態ではなかった。彼は仕方なく、私が落ち着いてからでいいと言ってくれた。


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