Ep.9 デルフィーナは予言者か?
9-1
【 十二月十日 】
最近また目の調子が悪い。先月頭から続く目の痛みが漸く治まったかと思えば、今度は視界がおかしいのである。
日誌を遡って調べてみたところ、六月以来の再発だ。その時は左目だけであったが、今回は両方同時に症状が出た。一応またルカレッリに湿布薬をもらっているので、こまめに目を休めるようにすればそのうち治るだろう。
幸い、目が全く開かないということはないので、少々見づらいがなんとか生活はできている。できてはいるのだが、視界がおかしいというのは物凄い負担であると、改めて思い知らされた。
今、私の視界は上下が半分ほどに狭まっており、しかもかなり暗くなっている。文字などの細かいものも見えにくいし、何より困るのが人の顔だ。どうも人の顔を見ようとすると、赤黒く翳ってしまって判別できないのである。
ルカレッリに訊いたところ、相貌失認というものがあるらしい。それは人の顔だけが「見えるけれど認識できない」というもので、脳の障害の一つなのだそうだ。完全に人の顔が認識できなくなるのは恐ろしいが、何はともあれ、この異常な症状の原因に予想がついただけ有難い。
そんな訳なので、また暫く字がとても読みにくくなってしまうと思う。日誌をつける頻度も減ってしまうだろう。症状がよくなるまでの辛抱だ。
【 十二月十二日 】
今日、大変奇妙な患者に出会った。彼女のことは何と言っていいのか……病気とは違う、特殊な事情で精神病院に送られたらしい。
「急で申し訳ないんですが、本日一人お願いしてもいいですか?」
ルカレッリから突然そんな要請が来たので、私は驚きつつ承知した。
「まさか、また急患ですか?」
「いえいえ、違いますよ。その患者が是非あなたにお会いしたいと申し出てきたんです」
その患者は一昨日新しく来た女性で、名をデルフィーナ・インセーニョというらしい。名前に心当たりは無かったが、きっと単に信仰心篤い人なのだろうと、その時の私は楽観的に考えていた。
「わかりました。どうぞ案内してください」
「助かります」
病室で彼女と対面した時、私は度肝を抜かれた――彼女には顔があったのである。当たり前のことであるが、今の私にとっては当たり前ではない。あの見慣れたルカレッリの髭面ですら、今の私には赤黒く塗り潰されたように見えているのに。それが、初対面のデルフィーナの顔は、何の障りも無く見ることができた。健常な状態の時と同じように。
デルフィーナは外見からでは年齢の予想がつかない女性だった。四十は下回らないと思うのだが、目元に濃い化粧を施しているため、それより二十も三十も上に見えるし、逆に言えば、素顔はもっと若い可能性もある。背は低く、ロマのような派手な色遣いの服を着ていた。
彼女は私を見るなり、片方の口の端を吊り上げた。
「ごきげんよう、フラ・トマゾ。あんたに教えておきたいことがあるよ」
第一声がそれだったので、私はなんて失礼な女性だろうと思った。すると彼女は私の考えを読んだかのように言った。
「礼節なんて無用さ。あたしはただ言葉を伝えるだけ。それ以外のことはどうだっていい」
「失礼、シニョーラ。あなたが何をおっしゃっているのかよくわからないのですが」
「いいから座りな」
私は苛立ちを覚えながらも従った。彼女は膝が触れ合うくらいの距離に椅子を近付け、私の目をじっと覗き込んだ。
「あたしゃ予言者だ。未来が見える」
まさか、と心の中で呟いた言葉は、次の瞬間に彼女の声として耳に入っていた。
「まさか――と、思うかい? それなら何か一つ当ててみせようか」
スッと彼女が人差し指を立て、それを壁の一方へ向ける。修道院の方角だった。
「今晩食卓からオレンジが落ちる。その数は八個だ」
「……なんです、それ?」
「覚えておきな。後でわかるさ」
続いて彼女は指をこめかみにあてた。細めた目の中に濡れたような光が膜を張っていた。
「あんたは『偶然だろう』と思うかもしれない。だから、過ぎたことも当ててあげよう。例えば――フラ・タダイの自殺について、とかね」
どうしてそれを、と問う暇もなかった。彼女はタダイ修道士の自殺に関する詳細を――彼が不可視の存在を見ていたことも、自ら首を吊って命を絶ったことも――正確に語ったのだ。修道院の長老たち以外には明かされていない秘密であるにもかかわらず。
私は何も言えないまま彼女を凝視することしかできなかった。焦げ茶色の中に橙が散ったデルフィーナの虹彩は、まるで落ち穂の残る麦畑を思わせた。
「今日のところはこれで十分。明日またあんたが訪ねてくれた時に、続きの話をしようじゃないか」
彼女はそう言って私を病室から追い出した。五分にも満たない短い面会であった。
私はその足でルカレッリの部屋に直行し、デルフィーナ・インセーニョのことについて教えてくれるようせがんだ。
「やっぱり変なことを言われましたか」
ルカレッリの表情は赤黒く翳っていて判別できないが、声の調子から推測するに、きっとお決まりの困ったような笑みを浮かべていたのだろう。聞けば、彼も初対面時に同じような対応をされたのだと言う。
「彼女は占い師なのですか?」
「そうだとも違うとも言えるでしょうね。彼女は未来を見る女として知られていたそうですから」
デルフィーナの故郷はここより若干距離がある、森を抜けた先の村だそうだ。ロマの血を引く彼女は薬草の知識が豊富であり、人々を助ける『善意の魔女』と呼ばれる存在であったらしい。また、彼女には民間療法の知識以外に、未来を予見する力があると信じられていて、村人たちは種蒔きの時期や結婚式の日取りなどを占ってもらっていたという。
ところが、村に新しく移住してきた人々は彼女のことを否定した。特に未来を予見する能力を気味悪く思い、彼女を魔女であると訴えたのだ。加えて、その頃から彼女の予言が不吉なものばかりになったため、いよいよもって村人は彼女を庇えなくなってしまった。
魔女として異端審問官に突き出せば、彼女は死を免れ得ないだろう。だが、精神異常者であるとしてしまえば、少なくとも命だけは助けることができる。彼女に恩を感じていた村人たちの計らいで、デルフィーナは妄想癖のある精神異常者として病院に送られることになったのだそうだ。
「彼女の能力が本物であるか否かはともかく――」
ルカレッリは自分でも判断しかねるといった様子で締め括った。
「彼女は病人ではありません。思考力も判断力も正常です」
「デルフィーナはフラ・タダイの死の秘密を知っていました。あなたについても、何か知らないはずのことを言い当てたりはしましたか?」
私は彼が一瞬言葉に詰まったのを聞き逃さなかった。溜息と共に答える。
「ええ……ええ。誰にも明かしてこなかったことを」
夕食の折、見習い修道士が配膳の際に食卓にぶつかり、衝撃で果物の鉢を床に落とした。床に転がったオレンジの数は八個――デルフィーナ・インセーニョが予言した通りであった。
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