8-2

【 十二月五日 】


 タダイ修道士の手記を読み終えた。悪魔祓いの後から、どうにも目が痛むことが増えたせいで、予定よりかなり時間が掛かってしまった。

 そして、私は――……嗚呼。この感情をどう言い表せばいいのだろう?

 とにかくまとめてみよう。あまりに気高く、あまりに悲劇的な、タダイ修道士の最期について。


 まず、私たちはタダイ修道士の死について、正確なところを知らされていなかったようだ。

 修道院長から告げられた彼の死因は事故だった。それ以前からタダイは様子をおかしくしていて、所謂精神的に衰弱していたのであろう。彼の奇妙な言動は、私も同じ修道院の中で見聞きしていたし、手記においてもそれは如実に表れている。そのために彼は譫妄状態に陥り、不注意から転倒して頭を打ったと聞いていた。


 私たちの誰も、タダイ修道士の遺体を見ることは叶わなかった。私たちが埋葬に立ち会った時、既に棺桶には蓋がされていて、それに窓は開いていなかった。事故の際にあまりに生前の彼とはかけ離れた姿になってしまったため、故人の尊厳のために隠されたのだ、と聞かされていた。


 だが、それは嘘であったらしい。

 理由はやはり、彼の尊厳を守るため。


 タダイ修道士が見てきた奇怪な出来事のひとつひとつを挙げることはしない。そんなことは無意味だ。ただ、彼も私と同じであった。彼もまた、数多くの奇妙で危険で悲劇的な患者の死に立ち会ってきたのであった。

 


***


 タダイ修道士の死の詳細を記す前に、本来の目的であったリリィについて触れておく。


 結論から述べると、タダイ修道士の手記にも「リリィ」という名前は登場した。彼にもリリィが見えていたのだ。

 だが、彼は私ほどリリィと交友を深めたりはしなかったらしい。彼はリリィが語る噂話をくだらないと一蹴している。それどころか、手記の最後の方になると、彼女を『悪霊の類だ』と罵りもしている。

 タダイは私のようにリリィの部屋を訪ねるのではなく、彼がいるところに決まってリリィが姿を見せていたようだった。彼はリリィの容姿については殆ど述べていないが、『白い衣を着ていた』という記述だけは確認できた。気になることは、彼がリリィを『少女』と記すことはなく、常に『彼女』という書き方をしている点だけだろうか。


 得られた情報はそれだけだ。

 結局、リリィがどのような存在であるのか、という答えは得られなかった。とはいえ、彼女が私の妄想から生み出されたものではないとわかっただけでも、私の心は随分と軽くなった。



***


 改めて、タダイ修道士の手記が私の手元に渡ってきたのは幸運だった。本当に。そうでなければ、きっと私も――そして、後世の誰も知ることはなく、彼の献身は闇に葬られてしまっただろうから。


 先に述べた通り、亡くなる直前のタダイ修道士は、随分と思いつめた様子であった。ぶつぶつと譫言を呟いたり、何も無い虚空に向かって喚き立てたりすることも少なくはなかった。それはとても嘆かわしいことであったが、彼は既に高齢であったし、仕方のないことなのだと皆が受け入れて……いや、諦めていた。

 今になってわかる。あれは決して耄碌していたわけでも、譫妄状態に陥っていたわけでもなかったのだ。彼には確かに見えていた。我々のすぐ傍に蔓延る悪魔の手先が。


『見よ。悪魔の子らが物陰から覗いている。我らを嘲笑っている。聖バシリオに収容された憐れな患者たちは皆、その心を悪魔に蝕まれてしまったのだ。(中略)しかし、諦めるべきではない。彼らが奇異な行動を取りつつも、悪事に手を染めず踏み止まっているのは、一重に彼らの純なる心の強さによるもの。神が与えたもうた純心を、悪魔が完全に手中に収めることはできないのだ』


『多くの者にとって、悪魔は不可視である。だが、私には見える。あの黒く塗り潰された面貌は見間違いようもない! (中略)悪魔はどこにでも存在している。ひとたび聖域の外に足を踏み出せば、悪霊は朝靄のごとく地表を覆っている。(中略)真に神を信じ、教えに従い清い心を持ち続ければ、悪魔など恐れるにたりぬ。しかし、片時もその存在を忘れてはならないのだ』


『私は警告を上げ続けた。誰も私の言葉に耳を貸さないが。嘆かわしいことだ! 修道士たちですら、その脅威に気付こうとしない。(中略)悪魔は私たちの怠慢に付け入る。悪魔は私たちの弱きに付け入る。忘れてはならぬ。警戒を怠ってはならぬ。奴らは心を喰らう時を待っている』


 悔やんでも悔やみきれない。私たちはタダイ修道士を精神病患者と見做すことで、彼からの警告を無視してしまったのだ。その愚かさが招いた結末が、タダイ修道士の死である。


『自らを殺すことは大罪である。人の生死は神の領分であり、たとえそれが自らの命であっても、人が生死を操作しようと試みることは、これ以上ない重罪なのだ。だが、私はあえてその罪を犯そう。(中略)悪魔は地獄の底へ帰らねばならぬ。私は「それ」を連れて行く。悪しき者どもに蝕まれた善なる者たちの心に平穏が訪れんことを願って』


 タダイ修道士の決意を想うと言葉にできない。

 彼は自身の身を捧げることによって、他者を救うことを決意した。本来であれば、こうした他者のための気高い自己犠牲は罪と見做されない――しかし、手記に残された言葉を見れば、彼が救済を望まないであろうことが伝わってくる。

 地上に蔓延る悪しき者たちを然るべき居場所へ連れ戻すため、彼は地獄へ堕ちることを承知したのだ。


 ここには、タダイ修道士が首を吊る直前までの記録が記されている――克明に。

 梁にロープを掛け、結び、輪を作る。最後の方の文字は酷く震えているが、それは彼が死の恐怖に怯えていたからではないだろう。これほどの決意を持った偉大な人物が死を恐れるはずがない。おそらくこれは、不安定な台の上に乗り、輪に首を通した状態で書かれたのだ。


『主よ、我らを救いたまえ――』


 そして、彼は台を蹴った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る