Ep.8 修道士タダイの献身

8-1

【 十月十七日 】


 このところ、私とルカレッリ医師の仲は険悪である。私と彼はもともと馬が合うとは言い難かった。私は常日頃から彼の患者への礼節を欠いた言動に疑問を抱いていたし、彼の態度はしばしば不真面目さを感じさせる。それが、今度の件で決定的なものになったのだ。


 問題を表面化させたのは、リリィについてだった。ヴァレンティナ・ノベッティの遺骨を発見した後、リリィは私に彼女の正体を明かした。あの可愛らしい少女は、既に肉体を失った死者であると言うのだ。

 私は彼女のその告白を冗談だろうと一蹴した。もともと悪戯好きな子供だったから、またしても悪趣味な冗談を言っているのだと思っていた。しかし、彼女が霊体だという疑いを持って接すれば接するほど、それを裏付ける証拠ばかりが目に付いてしまうのだ。


 極めつけはルカレッリである。彼は真っ向から彼女の存在を否定したのである。


「あなたもご存知でしょう。この病院に子供の患者はいません」

「しかし、私は実際にあの少女に会っています。長い時間を共に過ごし、言葉を交わしました!」

「フラ・トマゾ」


 ルカレッリは僅かに同情を含んだ、何とも言えない顔で私を見ていた。辛抱強いその声音は、妄執に囚われた患者に言い聞かせる時と同じものであった。


「僕は聖バシリオ精神病棟に移って、もう四年になります。それ以前の本病院に勤めていた頃にも、この病棟には何度か手伝いで派遣されたことがあります。併せて十年余り。その間に、あなたがおっしゃるような少女をここで見たことは一度もありません」

「それは、あなたが――っ」

「記録を確認しましょうか?」


 ルカレッリは彼の書斎に据えられた戸棚を開き、ずらりと並んだ背表紙を指し示した。それらには『聖バシリオ精神病棟入院患者記録』と記されている。


「ここにすべて記録されています。もし、あなたが望むなら。『リリィ』という少女が実在するのかしないのか、明らかにすることができるでしょう」


 私は言葉を呑み込んだ。ルカレッリの口調は柔らかくも、その声の調子には一切が本心であると告げるものがあったからだ。彼が私を茶化しているのでも、疑っているのでもないとわかる。真摯に向き合ったうえで彼がその結論に至ったということは、これ以上ないほど冷酷に私に現実を突き付けていた。


「トマゾ修道士……僕はあなたに無理をさせ過ぎました」

「は? いきなり何を……」

「しばらく慰問は中止しましょう。先日のヴァレンティナの件も負担が大きかったでしょうし、きっと疲労が溜まっています」

「その必要はありません。休養は十分に取っていますし、あなたは私を精神薄弱者だと――」

「どれほど強靭な精神の持ち主であっても疲労は感じます。それは目に見えないまま着実に溜まり続け、いつか決壊してしまうでしょう。金属ですら、力を加え続ければ折れてしまうのですから」


 私は黙り込んだ。彼も無言で私を見た。私の視線には敵意があり、彼の視線には憐れみがあった。

 彼が私を労わってくれているのだということはわかる。私はその思いやりには感謝しなければならないだろう。だが、どうしても。あの子の存在を丸ごと否定されることだけは、認めてはならなかった。

 私は私の心の奥底に眠る怒りの蠟燭が灯されるのを感じた。


「……ドットーレ・ルカレッリ。あなたはリリィが存在しないと――彼女は私の妄想の産物に過ぎないとおっしゃるのですね」

「違います、修道士さま! 僕はそんなことは――」

「リリィは自分のことをもう死んでいると言っていました。私はそれを信じませんでしたが……あなたがそうおっしゃるならば、確かに彼女はもう生ある存在ではないのかもしれません。遠い昔、ドットーレが聖バシリオにいらっしゃるより以前に、この病棟で亡くなったのでしょう」


 彼は何も言わず私の次の言葉を待っていた。私は乾いた唇を湿らせた。それを認めるのは苦痛ですらあったけれど。冷めた紅茶は味を失っていた。



 納得できない。到底できるものではないだろう。リリィが私の妄想の産物だなどということは。


 ヴァレンティナの件があって以来、明らかになったことがある。私には死者の魂が見えるということ。それは特別なことであって、私以外には――ルカレッリには――見えていないということ。

 この際、どうして私にそんな力が備わったのかは置いておこう。いずれにせよ、何らかの意味があるには違いないのだから。とにかく私には他人には無い力があって、私はそれを誰かのために役立てるべきだ。


 ヴァレンティナは遺体が発見されることを望んでいた。だから私に訴えかけてきたのだ。であれば、リリィもまた救いを求めているのではないか?

 リリィが死者であるのなら、その魂は悪しき者の手によってこの地に縛り付けられているに違いない。悪魔や悪霊の手によって、正しく天へ召されることができなかったのだ。こんなに嘆かわしいことが他にあるだろうか。罪無き少女が主の御許に逝くこともできず、孤独に囚われ続けているだなんて。


 救ってやらなければ。私が。

 きっと彼女は、そのために私の前に姿を現したのだ。



【 十月十八日 】


 私はルカレッリに中庭を掘り返す許可を求めた。


「リリィは中庭に埋められているはずです。どうかそれを掘り返させてください。彼女の遺骨が見つかれば、あなたも彼女の存在を認めざるを得なくなるでしょうから」

「……許可できません」

「なぜ?」

「中庭には、もう何も埋まっていないからです」


 ルカレッリは表情を欠いた目で私を見つめた。


「ヴァレンティナの遺体が発見された際に、警察は中庭の全域を掘り返したんですよ。しかし、彼女以外には何も発見されませんでした。その他の遺体はもちろん、少女のものと思われる遺骨も」


 そんなはずはない、と私はなおも食い下がった。警察が見逃した箇所があるのかもしれないし、もっと深いところに埋められている可能性もある。自分の目で見ないことには信じられなかった。信じるつもりもなかった。

 けれども、ルカレッリは頑なにそれを聞き入れようとはしなかった。


「繰り返します。許可できません。あなたにはリリィという少女が見えているのかもしれない――ですが、彼女はもうこの病棟の患者ではなく、中庭に埋められてもいないのです」



***


 なぜ?

 なぜルカレッリはああも頑なに拒否するのだろう。リリィは絶対に中庭に埋められているはずだ。もしや、彼女の遺体を発見されるとマズいことでもあるのだろうか?

 ルカレッリがリリィの存在を隠蔽しようとしているという可能性。はたしてそんなことがありうるのか? ルカレッリは眉を顰めたくなるような言動をすることもあるけれど、医師としてはきちんと認められた存在だ。その彼が、まさか……。

 それとも、私がおかしいのだろうか? ルカレッリの言う通り、リリィは本当は存在しておらず、私の妄想の中だけに存在しているのか?


 わからない。最近何もわからなくなってきた。私の理解の範疇を超えることが多過ぎたのだ。そういう意味ではルカレッリの言う通り、私は疲れてしまったのだろう。

 休む……駄目だ。頭が眠ることを拒否している。一度この件から離れ、頭を冷やさなければ……。



 そうだ。

 フラ・タダイ――偉大なる我が先代は、このような不可解な事情に悩まされたことはないのだろうか。修道院のどこにも私の現状を理解し、導いてくれる者はいない。

 私の前を行く者は今はもういないけれど、私には彼の手記がある。

 ずっと読む時間を取れていなかった。これを機に改めて先代の手記を紐解けば、彼が私を導いてくれるかもしれない。


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