7-4

***


 すべては決着した。

 私は先にフレド神父について述べた言葉の数々を撤回し、その非礼を詫びねばならない。彼は見事悪魔を退けたのだ。


 私たちは神父が食事や休養を取るものと思い、時間になればいつでもその用意をして待ち構えていたが、ついぞ扉が開かれることはなかった。

 封印された扉の向こうからは、時折激しい罵倒と物が破壊される音、それに対抗する神父の絶叫が漏れ聞こえており、その度に私たちは彼を守りたまえ、と主に祈りを捧げていた。


 フレド神父が再び姿を見せた頃には、太陽はすっかり姿を隠し、空には月が昇り始めていた。

 扉が開かれた途端に私たちは椅子から立ち上がったが、彼がもたらす知らせが勝利なのか敗北なのかを聞くまでは動けなかった。

 フレド神父は疲れ果てていた。顔つきから精悍さは失われ、金の髪は乱れて汗で額に貼り付いていた。彼の肌に走るいくつかの切り傷や引っ掻き傷が、戦いの壮絶さを物語る。


「終わり……ましたよ……」


 彼はそう告げるなり、意識を失って崩れ落ちた。一番近くにいたルカレッリが抱き留め、看護師たちにベッドを用意するよう指示を出す。私とシモーネ修道司祭は慎重に処置室へと踏み込んだ。


 処置室は惨状と化していた。無事なものは一つしかなかった――ヴィジリオ・フェルミが寝かされた施術台だ。それ以外の物はすべて破壊されるか、吹き飛ばされて床に転がっていた。その中にはフレド神父が拵えたであろう祭壇も。乳香を焚いた形跡が見られたが、ヴィジリオが撒き散らしたらしい吐瀉物と、それが放つ強烈な硫黄の臭いに掻き消されてしまっている。

 ヴィジリオ・フェルミは静かに寝息を立てていた。たった二日で酷く痩せてしまい、髪も肌も老人のように干乾びてしまったが、それでもちゃんと生きていた。


「患者は?」


 後から入ってきたルカレッリが緊張した声で問う。私たちが場所を空けると、彼はすぐに患者の容体を調べた。そして、ほっと胸を撫で下ろす。


「ひとまず問題は無さそうです。脈も呼吸も安定している。通常の病室に移して一晩様子を見、明日になったらご家族にも連絡を入れましょう」

「フレド神父のご容体は?」

「酷くお疲れになっていますが、大きな怪我などはされておりません。少し休めばお目覚めになると思いますよ」


 シモーネ修道司祭は早速修道院で迎え入れの準備をしようとおっしゃった。神父を丁重にもてなし、その労苦に報いなければ。

 ところが、目を覚ましたフレド神父はその申し出を断った。


「珈琲を一杯いただけますか。それをいただいたらすぐに発ちます」

「どうかそうおっしゃらずに。あなたにも十分な休養が必要でしょう」

「身を休めることは帰路の途中でもできます。私には報告の職務が残っておりますので」


 彼は本当に長居したくない様子であった。シモーネ修道司祭がどれほど名残惜しんで引き留めても聞かず、このあとの事務的な処理についてのみ説明を残して立ち去った。私にはそれが実に奇妙に見えたものだが、師はそれを一種の職人気質のようなものと受け取って、いたく感心し続けていた。


 去り際、私は我慢できずにフレド神父に疑問をぶつけた。


「パードレ。私に十字架が握れるかと訊いたあなたの質問、あれにはどのような意味があったのですか」


 神父は私の目を見据え、無表情のまま唇だけを歪めた。


「……お気になさらず。単なる戯れです」

「戯れって、そんな――」


 つ、と彼は私の言葉を人差し指で遮った。その眼差しに、今までのような愉悦の色はなかった。


「悪魔というモノはどこにでも存在しうるのです。ゆめゆめお忘れなきよう。狂気に惑わされぬように――この病棟には悪しきものが蔓延っています」


 まだ蒼い唇が吐く囁きは、静かな気迫で私を圧倒した。


 フレド神父は何を意図してそう述べたのだろう。

 その時の私は深く考えることをしなかった。彼に言われずとも、私は目に見えぬ狂気の存在を十分に知っているつもりだ。彼は私が向き合ってきた狂気を知らないからそんなことを言うのだと、憤慨すらしていたのだ。


 だが、冷静になって思い返せば、もっと詳しく聞いておくべきだったのかもしれない。彼がどんなに礼節を欠いた人間であるにしても、彼は確かに悪魔に打ち勝ったのだ。悪魔という強大な存在を退ける術を持っている。彼が見てきたことは、私が見てきたモノに別の視点をもたらしはしないのだろうか。


 とにかく今は考えるのをよそう。私も酷く疲れている。全身が重いし、目の奥がじくじくと痛んでいる。視界がどうも黒っぽく見えて仕方ないが、きっと寝不足のせいだろう。



【 十一月三日 】


 ヴィジリオ・フェルミが退院した。実に喜ばしいことだ――おそらくは。皆が笑顔で彼の退院を祝福しているのに、私だけがどうも素直にその事実を喜べずにいる。


 目を覚ましたヴィジリオは、本来の純朴な青年に戻っていた。彼は悪魔に憑かれていた時のことを朧気にしか覚えていないと言う。


「ずっと暗い水の底にいるような感じでした。とにかく息が苦しくて、自分の口が何か喋っているのはわかるんですが、はっきりとは聞き取れないんです」


 元気な息子の姿を見た母サンドラは、目に涙を浮かべて彼を抱き締めた。親子は看護師一人一人に礼を述べて回り、後日修道院も訪ねるつもりだと言っている。


「その時は是非、悪魔に屈しなかったヴィジリオを讃え、皆で祈りを捧げよう」


 と、シモーネ修道司祭は答えていた。


 そうした喜びの場面において、私は一歩退いたところで見守っていたのだが。


 あれは見間違いだったのだろうか。

 いや、どうかそうであってほしいと思っている。


 ヴィジリオの目玉がギョロリと回転し、目の周りが真っ黒に染まるのを。その時彼の顔に浮かんだ残忍な笑みを、見間違いだったと認めていいのだろうか。


 私は疑問を拭えない。本当に人間ごときが悪魔に打ち勝つことなどできるのか?

 フレド神父は「悪魔は去った」と告げたけれど、それを裏付けるものは何も無い。ただ、ヴィジリオが本来の彼らしい振舞いを取り戻したということだけだ。


 私たちは忘れるべきではない。ヴィジリオに憑りついた悪魔が、息子と同じ声、同じ言葉でもって、母に助けを求めたことを。それはつまり、悪魔はその気になれば、いなくなったフリができるということではないのか?

 フレド神父があんなに早く立ち去った理由も説明がつくではないか。

 彼は悪魔に叶わないと知り、逃げ去ったのではないのか?


 本当のところはわからない。誰もその可能性に気が付いていない。目を向けようとしない。


 であれば、私だけは警戒を怠らぬようにしよう。

 

 恐れよ。

 惑わされるな――疑え。


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