Ep.7 悪魔憑きのヴィジリオ

7-1

【 十月三十一日 】


 大変なことになった。

 これを書いている今も『それ』を目の前にしているにもかかわらず、私は未だに『それ』が実在したという衝撃から立ち直れずにいる。

 存在を疑っていた訳ではない。どちらかと言えば、私はそれをあらゆるものの寓意に過ぎないと考えていたのだと思う。『それ』が実際に確認されたという事例は枚挙にいとまがないけれど、それはどこか遠い教区での出来事で、私の身に直接降り掛かることはないと信じていたのだ。


 今、私は悪魔を目の前にしている。


 これは記録であるから、事の次第を順に書き記さなければならない。おそらく今日の記録は、私が残すすべての記録の中で最も重要なもののひとつになるだろう。

私の後に続く者たちの助けになることを願って。



***


 事の起こりは、正午の鐘が時を告げてすぐのことであった。今日は午後から三人の患者を見舞うことになっていた。

 私は菜園を通って聖バシリオに向かい、執務室の窓を叩いてルカレッリに門を開けてもらった。それから二人で予定された患者のもとに向かう。ここまでは普段通りだったのだが。

 ちょうどエントランスに差し掛かったところで、玄関から看護師が駆け込んできた。血相を変えている。私もルカレッリも、瞬時にただ事でないことを察した。


「ドットーレ・ルカレッリ! 急患です!」

「急患? 何があった?」

「見ていただいた方が早いかと」


 直後に担架が運ばれてきた。若い男性が乗せられている。彼は全身を縄でぐるぐる巻きにされた上に、担架に縛り付けられていた――にもかかわらず、奇声を上げながら激しく身を捩っており、その苛烈さは大人の男二人でも押さえ込むのに苦労するくらいであった。

 男が叫んでいた言葉を記録に残すことはできない。あまりにも卑劣で背徳的な言葉であり、思い出すことすら憚られる。実際、私はその言葉を聞いた途端に吐き気を覚え、耳を覆わずにはいられなかった。


「これは……処置室へ運びなさい。それから、こちらの棟には誰も近付けさせないように。修道士さま、すみませんが、今日の予定は中止にさせてください」


 さすが医師だけあって、ルカレッリは私より遥かに立ち直りが早かった。てきぱきと指示を出し、自ら担架を先導する。私はどうするべきか一瞬迷ったけれど、何か手伝えることがあればと思い、彼らの後を追うことにした。


 処置室には医薬品などを収めた棚のほか、中央には拘束具付きの施術台が置かれている。看護師たちがそこに患者を移そうと試みるが、その作業は困難を極めた。私も手を貸し、五人掛かりでようやく拘束具を付けることができた。

 ルカレッリが直ちに鎮静剤を投与する。患者の抵抗は瞬間的に勢い増したけれど、数分後には大人しくなった。


「ふぅ、よかった……ご家族の方を呼んでくれ。詳しい経緯を訊きたい」


 指示を受けて、看護師が一人出て行った。

 その時だった。


「馬鹿馬鹿しい。そんな草の汁が効くと思うか?」


 パンッと弾ける音がした。

 何が起きたのかわからないまま、私は床に転がってカラカラと音を立てる木の棒を見下ろしていた。それが薬品棚の閂であると理解する間も無く、私たちは硝子片の雨に晒されることになる。

 棚に並んだ薬瓶が次々と破裂していく。まるで連鎖するように。薬液や錠剤が降り注ぐ中、私たちは頭を庇って蹲り、悲鳴を上げることしかできなかった。


 すべての薬瓶が砕け散って漸く、部屋は静寂を取り戻す――かと思いきや、次にそれを破ったのは、しゃがれた高笑いであった。鎮静剤を打たれたはずの患者が大声で笑い始めたのである。

 その声は一人でありながら千人にも聞こえ、男であり女であって、老人であり赤子であった。小刻みに震える声の中には軋むような音が混じり、それが聞く者の肌を粟立たせていた。


「愛おしいじゃあないか……ヒトの子はいつの世も愚かさを重ねる。なぁ? 惨めに思わないのか? え? 他人を蹴落とし、肉を喰らい、母を犯して子を嬲る! は、はははハハは破ハは!」


 私はそこでやっと、相手の正体を理解した。

 この部屋で起きた異常な事態を目にした時からそうだと気付いていたはずだが、どうしても現実を受け入れることができなかったのだ。しかし、その後に彼の口から飛び出したありとあらゆる冒涜的な言葉を聞き、私は認めざるを得なくなった。


 悪魔だ。

 この青年は、悪魔に憑りつかれている。


 嘲笑は絶叫に変わり、目玉がギョロギョロと激しく動き始める。それはおよそ人体に可能な動きではない。まるで飛んでいる蝿のような狂った動き。そして、それがピタリと看護師の一人の上で止まった。


「ああ……お前が泳げるなんて自慢しなければなぁ、アントニオ? 可哀想なマルコ……知らなかったのかい、アントニオ? 人間は泳げなくても死にゃあしないが、泳げない人間は海に落ちると溺れ死んでしまうんだよ。お前の友達みたいにねェ!」


 続いて矛先は別の看護師に。目が合ってしまった彼は怯えて後退りしたが、悪魔の鉄槌は逃亡を許さなかった。


「おや、ジャンバッティスタ。どうしてお前が生きているんだ? 生き残るなら兄さんがよかったって、皆が言っている声が聞こえないのか? お前の父さんも母さんも出来のいい息子を失って悲しかったに違いないのに、お前はそんな両親に気を遣わせてきたのかい! 彼らの本音に耳を傾けてご覧よ。本当は――」

「君、そっち側を押さえていてくれ。私が猿轡を噛ませる」


 ルカレッリが鋭く悪魔を遮った。呆然と目を見張る看護師たちに指示を出し、薬品棚の抽斗に手を掛ける。


「ドットーオオォォレ・ルカレッリ! お前の患者はさっぱり病気が治らないなァ? どうしてだか知っているかね? お前が治そうとしないからさ! お前は適切な治療を怠って、患者が目の前で死んでいくのを――」


 次の標的は、当然ながらルカレッリに。

 だが、彼は一切動じた様子を見せなかった。悪魔の不可視の力によって抽斗が大砲のように射出されてしまったならば、ただちに自身のハンカチを代用として患者の口に捻じ込もうとした。その傍ら、彼は私に向かって怒鳴った。


「修道士さま! 大至急、修道院長に伝えてきてください。悪魔祓いの派遣を要請するようにと!」


 私は弾かれたように立ち上がった。抵抗する悪魔の眼光が私を射抜くのを、気配だけで感じ取る。悪魔の嘲笑は私へ向いたが、それを掻き消すためにルカレッリが怒鳴り続けてくれていた。


 扉に飛び付いた私は、そこで廊下から来た看護師と鉢合わせした。彼は年老いた婦人を連れていた。患者の母親だろうと、彼女の泣き腫らした目を見ただけで察しがついた。

 最悪のタイミングだった。

 病室の医師たちが気付くよりも早く、悪魔は彼女の存在を感知してしまったのだ。


「母さん! やめさせてくれ! こいつら、オレを殺そうとしているんだ! 助けて、母さん!」


 一秒前の罵声とはガラリと変わった青年の声。

 まだ若く張りのある、未成熟の甘えが混じる声。それが恐怖を滲ませながら、必死で母に哀願を始める。


「助けて! 母さん、母さん! やめさせてよ! 殺されちゃうよおおおぉぉ……っ!」

「ヴィジリオ……っ!」


 母親は頬を押さえて悲鳴を上げ、ルカレッリの腕に取り縋った。


「やめてください、お医者さま、やめてください! 息子に乱暴なことはしないでください!」

「お母さん、落ち着いてください! これは必要な処置なんです。アッ、くそ! ピーノ、彼女を連れて出してくれ! 病室に近寄らせるな!」

「そんな……ヴィジリオ、ヴィジリオー!」


 看護師が彼女の肩を抱き止め、無理矢理こちらへ引っ張ってきた。息子へと痩せた手を差し伸べる老母の抵抗が憐れを誘う。豹変した青年の様子に足を止めていた私も、彼らを手伝おうと扉を押さえて待っていた。

 もう少しで彼女を廊下に連れ出せる――というところで、再び悪魔の声が変わる。


「使えないババアだなァ! 子は親を選べないってのにねェ! オレは神を呪うよ。こんな醜く鈍間で貧乏なババアのところに生まれるなんてさァ!」

「フラ・トマゾ!」


 ルカレッリが怒鳴る。私は咄嗟に扉を閉めたが、厚い扉越しでもなお、青年の母への暴言は防ぎきれず。私と看護師は、彼女がハラハラと涙を流して崩れ落ちるのを為す術無く見つめることしかできなかった。



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