Ep? 明晰夢

【 蜊∵怦蜊∝?譌・ 】

 私は暗い廊下を歩いていた。闇が辺りを呑み込んでおり、私が提げたランタンの灯りだけが、まるで結解のように私を暗黒から守っていた。

 私は道が予想と異なる方向へ曲がっていることに気付き、足を止めた。てっきり僧房にいるものだと思っていたが、違ったらしい。左手の壁にランタンを掲げる。浮かび上がった扉を見て――嗚呼、そうだった。私は聖バシリオ精神病棟にいるのだ。


 扉には炭で文字が書かれていた。名前だ。

 

 イザベラ・ロッコ――私は指先に小さな痛みを感じた。

 トビア・アデージ――私は左目に鈍い痛みを感じた。

 アダン・ルーポ――私は心に耐え難い痛みを感じた。


 なんだ。皆、私が見舞った患者ではないか。


 エーネロ・バルビエリ――私は耳に裂けるような痛みを感じた。

 ジャコモ・ノベッティ――私は首に圧迫される痛みを感じた。

 ヴィジリオ・フェルミ――私は喉に焼けるような痛みを感じた。

 

 知らない名前もある。一瞬疑問に思ったが、何も不思議なことはない。ここは病棟で、沢山の患者が入院している。私はそのすべてを見舞っているわけではない。


 それで、私はどこへ行くのだったか。こんな時間に誰を見舞うというのだろう。

 私は歩く。いつの間にか月が顔を出していた。窓から差し込む月光が長い線を床に落とし、私が進むにつれて後ろへ後ろへと流れていく。その様は、蝋燭を手に列を為す信徒たちの礼拝を思い起こさせた。


 ふと、私は足を止める。

 見間違いではなかった。その扉の名前はよく知っていた。


 パメラ・アバチーノ


 であれば、その隣の名前は予想がつく。


 イグナチオ・アバチーノ


 彼らがここにいるはずがない。絞首刑になったのだから。

 そこで私は、これが現実ではないと気が付いた。夢であろうか。あまりにもリアルな感触のある夢。指先を焦がすランタンの熱も、サンダルの裏に感じる床石の凹凸も、現実とまるきり同じであった。

 これが夢であるならば。私の思うままにできるのではないか。


「リリィ」


 虚ろな廊下に囁いた。するとやはり、前方にあの白いワンピースの少女が現れる。


「こんばんは、修道士さま」


 リリィはペタペタと小さな足音を立てながら駆け寄ってきた。裸足のままで、その透けるような雪色の肌が寒々しい。


「やあ、リリィ。君もここにいるんだね」

「そうよ。だって、あなたが呼んだんだもの」

「これは私の夢だろう? これが私の記憶だから、君は靴を履かないの?」

「記憶なんかじゃないってば。ここは裏側の世界なの」


 そう言って彼女はいつかのようにふくれっ面をする。彼女が両手を広げてくるりと回ると、スカートが白百合のように花開いた。


「 裏側、ね……」


 呟かずにはいられなかった。

 リリィが以前教えてくれた。私たちの世界とは別の、もう一つの世界。

 この世界では、私の両親は存命なのだろうか。変わらず小さな畑を耕して暮らし、時に旅人を泊めてやったりしているのだろうか。この世界の私は、処刑された彼らの死顔を見てはいないのだろうか。


「会いたい?」


 まるで私の考えを読んだかのように、リリィが首を傾げる。私は静かに首を振った。


「……会ったって、何を話せばいいかわからないよ」

「何を話したっていいじゃない。したいようにすればいいのに」

「そう簡単には……いかないのさ」


 もし生前と変わらぬ姿の彼らに会ったら、私は彼らに何を望むだろう。再会を嬉しいと感じることができるだろうか――駄目だ、自信が無い。きっと口汚く罵ってしまう。私が本心では彼らをどうしたいと思っているのか、知ってしまうのが怖かった。


「私が会いたいと思えば、誰だって呼び出せるのかい?」

「そうじゃない? 決めるのはあたしじゃなくて、修道士さまよ」


 リリィが問う。


「修道士さまは誰に会いたいの?」


 目を閉じる。月光を、ランタンの灯りを、締め出すように。

 再び目を開くと、自分が行くべき場所がわかっていた。私は黙って歩き出した。


 病棟の廊下はどこまでも先へ続いていた。これは私の夢なのだから、この距離は私の心理的距離を表しているのだろうか。などと考えているうちに、突き当りが見えてきた。

 扉に書かれている名前は、私の想像通りだった。低く耳障りのいい声が答える。


「入りなさい」


 真っ白い部屋だった。床も、壁も、家具も、寝具も。そこに寝ている老人まで。彼は私の記憶にあるままの姿でそこにいた。


「フラ・タダイ」


 私は彼のすぐ傍まで近付き、恭しく膝をついた。しわがれた手が――懐かしいあの手が――私の頭に載せられ、祝福を授ける。


「……またあなたにお会いできるとは思っておりませんでした」

「顔を上げなさい」


 彼の顔を見る。涙がつぅと頬を伝うのを感じた。

 私はまざまざと思い知る。自分がどれだけ彼のことを求めていたか。慰問の役目を引き継いでからというもの、私は無自覚のうちに導いてくれる師の存在を切望していたのだ。

 ただ、師の声を聞いていたかった。

 私を叱咤し、進むべき道を示してほしかった。


「だが、それは叶わん。私はお前の願望の産物であって、お前の中にある言葉しか語ることはできないのだから」


 慈悲深い声が、無慈悲に告げる。

 私はまたしても項垂れた。


「フラ・タダイ、我が師よ。私はおかしくなってしまいました。私の精神はもはや正常ではありません。無いはずのモノを見、聞こえないはずのモノを聞き、覚えのないことを書き記しているのです。私は怖い……この脆い精神がやがて崩れて、ここにいる患者たちのように、私も狂気の淵へと堕ちていってしまうのでは、と」

「恐れることは悪いことではない。むしろ、それを自覚することは正しいのだ。お前も気が付いているように、狂気とは限られた者だけに及ぶものではない。人間は誰しもその内に正気と狂気を併せ持っている。お前は狂気を恐れることで、それに蝕まれまいと抗っているのだ」

「しかし、あなたは――」


 私は一瞬躊躇った。あまりにも礼を欠いたことを言おうとしてしまった。けれど、私が夢に造り出した師は、当然ながら私の胸中を見透かしていた。

 彼の白濁した眼差しに促され、私は疑問を口にする。


「私には、晩年のあなたが正気を失ってしまわれたように見えました。あなたは狂気に負けてしまったのでしょうか? あなたですら抗いきれなかったものに、私ごときが打ち勝つことなどできるでしょうか?」

「トマゾよ。お前にそのように見えていたのであれば、お前の目は狂気に曇らされている。恐れよ。惑わされるな――お前は狂気に堕ちた人間が正気を装うのを見ただろう。同じように、狂気はお前に正気という幻影を見せる」


 節の目立つ老いた手が私の頬に添えられた。体温は感じられなかった。それは彼がもうこの世にはいない存在なのだと私に思い起こさせ、私は再び涙を流した。


***


「それで、会いたい人には会えた?」


 気が付くと、リリィが私の顔を覗き込んでいた。小さく柔らかな指が私の頬に触れ、塩辛い涙を拭ってくれる。私は堪らずその手を取り、この胸に抱き締めた。


 暫し、そうしていたと思う。

 これが私の夢であるならば、このまま夢が覚めぬよう。

 そんな風に願ってしまった。


 やがて、その小さな手の平から温度が無くなった時、私は目を覚ましたのだった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る