6-3

***


 夕課が終わり、書写室に残ってこの記録をつけ始めるまで、私は彼女が何者なのか理解していなかった。回廊でも、食堂でも、菜園でも、私の斜向かいに立ち尽くしている女性。礼拝堂では見かけなかったように思うが、祈りに集中していたので確信は無い。


 彼女がヴァレンティナだ。


 行方不明になっているジャコモの妻――修道院の中にいるということは、彼女はやはりもう死んでいるのだろう。彼女はどこにでも姿を現すが、私以外の誰も彼女に気付く者はいないようだった。


 はじめは気味悪く思っていたが、彼女がヴァレンティナだと合点がいくと、不思議と恐怖は抱かなくなった。幽霊などというものは初めて見たが、あんな風に見えるものかと感心すら覚えたほどだ。私には見えぬはずのものが見えることよりも、彼女が既に亡くなっているという事実に胸を痛めていた。


 ところが、私の楽観視もここまでくると事情が変わる。遠くからこちらを見ているだけだった彼女が、いつの間にか私の背後に立つようになった。


 今、部屋には私の他には誰もいない。それは当然のことで、本来は晩課以降の書写室の使用は禁止されているのだ。私はこの特別な仕事のために、修道院長から特例として終課に書写室を使用することを許されている。

 そんな訳で、この一角にだけ蝋燭を灯し、小さな橙の光の中で筆を走らせているのだが。

 人の気配は感じない。話に聞く悪寒の類も無い。けれども、窓硝子を見上げれば確かにそこに、私の背後に立つ女性の姿が映り込んでいるのだ。


 どうすればいいのだろう。今は何も感じないと言っても、振り返ることを考えると突然恐ろしく思われた。本能が「危険だ」と警告している。

 嗚呼。ぞわりと背筋を何かが走り抜けた。なぜ急に冷や汗が止まらなくなったのだ? だめだ。振り返りたくない。無駄なことを考えるな。振り返りたくない。振り返りたくない。振り返りたくない振り返りたあく振りぃ返あ振りか返り振りあ返りぃ振りたおい振り返れよ返りた振りくない……。


 いや。私は何を言っている?

 

 ずっとこうしてもいられない。私たち修道士の務めは日の出よりも早く始まるのだ。そろそろ床に就かなくては……。


 彼女はどうして私に付いて来てしまったのだろう? ジャコモではなく、私に?

私に何か伝えたいことがあるのだろうか。幽霊の類を見たのは初めてだが、彼女からは悪意のようなものは感かか感じない感かんじ感じないのだ。


 駄目だ。明日の務めに差し障りが出る。日誌にもこんな無駄なことを書き、貴重な紙を浪費してしまった。さあ、振り返ろう。


 息が止まった。

 目の前に彼女の顔があった。


 私は彼女の眼窩を覗き込んでいた。その黒く塗り潰されたような穴の中で、無数の蛆が蠢いているのを見た。


 主よ――そして、私は理解した。


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