Ep.6 穴掘りジャコモ

6-1

【 九月三十日 】


 聖バシリオ精神病棟には中庭がある。簡単に構造を述べると、病棟は大文字のEの形をしており、それぞれの横棒に囲われた二つの空間が中庭となっている。中央にある隔離病棟は他の二棟よりも短いので、実際には二つの中庭は繋がっている。上下の棟は向かい合うように折り返して部屋を持っており、それらの間には鉄格子でできた門がある。門の先は修道院の敷地だ。


 その中庭に、私がずっと気になっている人物がいる。大柄な中年の男性患者で、顔の半分を覆う縮れた髭と、肩を揺すって歩く姿が人目を引いた。彼は日がな一日庭に出て、大きなシャベルでひたすら穴を掘り続けている。その様をリリィが近くに座って眺めているのを以前からよく見かけた。


 先日、私は話のついでにルカレッリ医師に訊ねてみた。


「あの男性はいつも何をしているんです?」

「見ての通り、穴を掘っていますよ」


 私が睨むと、彼は冗談だと手の平を見せてきた。


「なんでも彼は、中庭のどこかに宝が埋まっていると信じているようでして。ずっとそれを探しているんです」

「どうしてまた? 何かそう思い込む根拠でもあったのでしょうか」

「さあ? あそこに何も無いことは、彼自身もよく知っているはずなんですがねぇ」


 教会堂の地下から古代帝国の遺跡が発見される、というのはよくある話だ。大聖堂のような重要な施設を建てる場所の要件が、遥か昔から不変だからであろう。他の教区には異教の神殿をそのまま教会へと改修した例もあると聞く。

 とはいえ、この修道院においてそれは当てはまらない。史書を紐解いてもそんな記録は存在しないし、ここはかつて人の住まぬ山林であった。遺跡や価値ある副葬品の類が埋まっているはずがないのだ。


「彼は元看護師でしてね。以前はこの病棟で働いていたんです」


 私は驚いて向かいに座る医師を見た。書き忘れたが、この会話は予定された見舞いを終え、ルカレッリの執務室で紅茶をいただいていた時のものである。慰問の後にこうしてお茶を飲むことが、私たちの習慣になっていた。


「ジャコモといいます。おおらかで人当たりがよく、力持ちだったので、暴れる患者を取り押さえるのに活躍してくれていました」


 ジャコモ・ノベッティが本病院からこちらの病棟に移ってきたのは、妻のヴァレンティナがここに入院することになったことが理由だそうだ。ヴァレンティナは典型的な躁鬱病を患っており、激しく感情を露わにすることもあれば、反対に突然塞ぎ込んで自殺未遂を計ったりするなど、重篤な状態であったという。

 彼らにはまだ幼い息子がいたが、躁状態になったヴァレンティナが息子に本来禁止すべき危険な行為(例えば、木登りであったり、一人で馬に近付いたりなど)を許可してしまい、その結果、息子が命に関わる怪我をすることが立て続いたために、養子に出してしまったそうだ。

 息子のためを思えば仕方のないこととはいえ、ヴァレンティナとて息子を愛するが故の行為であったはずだ。その決断が夫婦にとって如何につらいものだったかを想像すると、私も胸が締め付けられるような心地がする。


「それで、どうして彼自身が患者に?」


 ルカレッリは悲しげに視線を落とした。


「奥さんが病棟を抜け出しましてね……そのまま行方不明になってしまったんです」


 事件は他ならぬジャコモが当直の夜に起きた。

 一度目の見回りの時には、妻ヴァレンティナは確かに病室で床に就いていたが、二度目の見回りの時には既に病室はもぬけの殻だった。病室の窓には抉じ開けられた形跡があり、窓下の植え込みにも足跡が残っていたという。近隣住民の協力を得て大規模な捜索が行われたが、脱走したヴァレンティナを発見することはできなかった。


「今もどこかで生きている可能性はもちろんあります。ですが、亡くなっている可能性の方が高いでしょう。鬱状態にある女性が独りで生きられるとは思えませんし、逆に極度の躁状態から事故に遭うことも考えられます」

お医者様ドットーレ、私は躁状態にある患者というのを見たことがないのですが、そんなに危険なものなのですか?」

「場合によりますね。簡単に言ってしまうと、躁状態とは怒りや喜びといった感情が強く支配した状態です。誰かに酷く当たり散らすこともあれば、根拠の無い自信に満ちて突拍子もない行動に出ることもあります。正常な判断力を失っているので、突然川を泳いで渡ろうとしたり、熊に素手で挑もうとしたりする可能性が無くはないんですよ」


 脱走した時の彼女も躁状態にあったのだろう、とルカレッリは言う。そうでなければ、窓を無理矢理抉じ開けるなんてことはできなかっただろう。


 失意にあったジャコモが奇妙な行動を見せるようになったのは、それから程無くしてのことだった。悪夢を見るので眠れない、と訴えることから始まり、やがて見えない何かに怯えるようになった。譫言を繰り返すようになり、そして――穴を掘り始めた。


「彼はヴァレンティナがいなくなったことについて、自分を酷く責めていました。それは病院の管理体制に問題があったのであって、彼の責任ではないと何度も諭したんですが……妻が死んだのは自分のせいだ、と。彼は最初からヴァレンティナの生存に悲観的だったんです」


 聖バシリオは悲劇に満ちている。精神病患者たちは元々狂人だった訳ではなく、多くの場合、何らかの悲劇的な原因を抱えているのだ。それを知った今、私は彼らを憐憫の目で見ずにはいられない。


 私は窓の外へ目をやった。均一に塗り潰されたような曇り空だが、その向こうには確かに太陽の存在を感じさせる、明るい空であった。照り付ける日差しが無いぶん、土いじりのような屋外労働にはうってつけだ。ここからでも菜園で仕事をする修道士たちの姿が確認できる。

 ジャコモは今日も穴掘りに精を出し、リリィが何をするでもなくそれを見守っているに違いない。

 穴を掘り続けることで妻への罪悪感を忘れられるのなら、それもいいだろう。彼が縋れる救いが他には無いというのなら。


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