5-3

【 九月三日 】


 だが、これを記しているのは四日だ。あまりの出来事に、今日まで筆を執る気になれなかった。

 今でも――いや、よそう。これは記録だ。私は記録者として、事の顛末を正確に記さなければならない。自分自身への戒めも兼ねて。


 エーネロの退行現象は、言わば彼の改心の表れだ。そう、何度も自分に言い聞かせてはいたのだが、どうしたって彼の秘めたるものは、私の恐怖心を掻き立てた。無意識でも彼を避けようという心理が働いていたのは事実だし、実際に彼を前にした時、反射的にビクリと身を固めてしまった。

 エーネロはそのことに気が付いたのだろう。談話室で分厚い本を広げていた彼は、少し悲しそうな顔をしていたように思う。


「修道士さま?」

「あ、ああ……おはよう、エーネロ」


 私は自分の振舞いを反省し、笑顔を取り繕って彼の前に腰を下ろした。


「今日は何を読んでいるんだい?」

「料理の本ですよ。探検家が中東で食べた料理について書いた本です」


 そう言って見せてくれたページには、蟻のような潰れた文字と料理の絵が載っている。色が無いせいなのか、串焼きの肉料理はどうにも私の食欲を刺激してくれなかった。


「ボク、食べることが好きなんです。作るのも上手くなりたいけど、もうずーっと包丁なんて握らせてもらえてないし……ボクは魚より肉が好きです。修道士さまは、肉料理は好きですか?」


 あまり食べる機会は無いけれど、嫌いではないと私は答えた。それを聞いたエーネロはにっこりと微笑んだ。


「よかった!」


 何がよかったのかは、その後すぐに思い知る。知りたくもなかったが。

 エーネロはその本の中から興味深い料理を二、三教えてくれた後、私に言った。


「そうだ、修道士さま。聖書の中で、イエス様がおっしゃっている喩え話の意味がわからないところがあるんです。どういう教えなのか教えていただけませんか?」


 断ることはできなかった。それこそ私がここで果たすべき役割の一つなのだから。私がもちろんと即答すると、彼は自分の病室に来てほしいと求めた。


「残念だが、部屋には行けない。誰かが私に用があった時、どこにいるかわからないと困るだろうからね。ここで教えてあげるよ」


 警戒していることを悟られないよう、それらしい理由は前もって考えておいた。もしそれでもエーネロが駄々を捏ねた場合でも、これなら病院の誰かに私が彼の病室に行くことだけは伝えられる。

 だが、そんな警戒は杞憂だった。エーネロは素直に理解を示してくれた。


「わかりました。じゃあ、部屋に行って聖書を取ってきます」


 そう言って彼はあの分厚い書物を抱え、廊下へ向かいかけた――私の背後を回って。

 強い衝撃が頭蓋を揺さぶった。

 それを機に、私の記憶は一時途絶えている。



***


 下肢を圧迫されて目が覚めた。

 眼前に迫る灰色の瞳。エーネロだった。


「修道士さま、ボクは悲しいです」


 エーネロが私の上に覆い被さっていた。私は後頭部を壁に預けていたが、頭は中からも外からも酷く痛んでいた。

 彼の肩越しに見える景色は談話室のそれでなく、ここが彼の病室であることを瞬時に悟る。私は彼に背後から殴打され、気絶したところをこの部屋まで運ばれたのだろう。引き摺られて擦れた足にも、ヒリヒリとした痛みが広がっていた。


「ボクの犯した罪のこと、聞いてしまったんですね……」


 彼は心の底から悲しんでいるように見えた。あまりに健気なその仕草に、以前の私であれば良心の呵責を感じただろう。しかし、状況は危機的だ。本能が私にそれを告げている。


「エーネロ、退きなさい」


 私は恐怖と焦燥を押し殺し、辛うじて威厳を保って命じた。それが彼に届くことはなかったけれど。


「……あの時は本当に、どうかしていたんです。だって、あれからボクは、こんなにも辛い――」


 エーネロが手を上げる。握られていたのは、鋭利な園芸鋏。

 私は彼の腕を――彼が握る園芸鋏を奪い取ろうと手を伸ばしたが、膝で胸を押さえ付けられたために届かなかった。肺を圧されて呼吸が浅くなってしまう。


「信じてください……愛していたんです。愛していたのに、ボクは彼女のすべてを奪ってしまった。ボクは罪人だ――」

「や、やめろ……っ!」


 私は咄嗟に腕で身を庇った。肉を貫く鋭い痛みを覚悟して。

 だが、その切っ先が振り下ろされることはなかった。青年は慈しむような目で私を見下ろし――開いた刃を自身の耳に宛がったのだ。


「ぃんん……っ!」


 食い縛った歯の間から悲鳴が漏れる。大量の血液が彼の耳元から溢れた。葡萄酒よりも赤い液体が、私の目の前で青年の白い首筋を濡らしていく。


「え、エーネロ……! なんてことを……!」


 耳に入った自分の声はみっともなく震えていた。目の前の光景が理解できず、ただ呆けたように彼の名を口にすることしかできない。

 エーネロは痛みに顔を歪めつつも、どこか満足げな表情を驚愕する私に向けていた。


「ボクは改心しました。ボクの愛は間違っていたんだって。愛しているなら、奪うのではなく、与えることができなければならなかったんだって……」


 ぽとり、と落ちた歪な楕円の物体。血が伝う指でそれを摘まみ上げ、彼は、嗚呼――私の、口に、捻じ込んだのだ。


 あの感触を覚えている。舌に触れた耳朶は柔らかく、しっとりして滑らかだった。

あの味を覚えている。冷たさを感じたのは一瞬で、すぐに熱い血液で口内が満たされた。血の味。鉄臭さと生臭さの混じった、僅かに塩気のある――嗚呼、思い出したくもない! だが、歯が、舌が、喉が、あの感触と味を克明に覚えているのだ。


 本能が私に吐き出せと命じる。喉の奥がせり上がり、舌の付け根でその異物を押し返そうと必死に抗った。だが、エーネロの指が――何本もの指が私の口の中に入り込み、異物を奥へと押し込むのだ。

 咳き込んだ拍子に血液をいくらか飲んでしまった。それは液体であるはずなのに、小さな鉛の玉のように、はっきりと存在を主張しながら私の中へと落ちて行く。


「おげっ、ぁ、げえぇ……っ」


 そんな声を上げただろう。雑音のような自分の嗚咽に重なるように、エーネロの恍惚とした声が降り注いだ。


「これでボクは赦される。すべてを与えることで、ボクの罪は赦されるんだ……ッ」


 エーネロが私を押さえつける手を離した。私はほとんど反射的に口内の異物を吐き出した。ソレ――エーネロの耳朶だったもの――はベチャリと醜い音を立てて私の胸に落ちた。


 彼の血と私の唾液。混じり合った朱色の粘液を滴らせた指が眼前に迫る。止める間も無く、今度は左手の二本の指が、彼の肉体から切り離された。


「全部ですよォッ、修道士さま! ボクを赦すために、受け、取って……ッ!」


 差し込まれる二本の指。血塗れの視界の中、整えられた爪の白い三日月型だけが妙に明確だった。

 私は歯を食い縛ってその異物を受け入れまいとした。けれど、間に合わず――悍ましいかな、舌が爪の硬い感触を舐めると同時に、ゴムよりもいくらか柔らかい指の感触を噛み締めていた。


 私の記憶はそこから再び曖昧になる。むしろ、初めから何もかも覚えていない方がどれほどよかっただろう、と思うけれど。バタバタと激しい物音がし、胸に乗っていた重さが消えた。誰かが力強く私を抱き起してくれた。

 記憶の最後にあるのは、ルカレッリの褪せた灰褐色の瞳。



***


 もうこの件には触れたくない。だが同時に、私への痛烈な教訓でもあるだろう。


 看護師たちによって拘束されたエーネロは、いつまでも聞くに堪えない罵声を浴びせていた。退行現象はもはや見られず、そこにいるのは凶暴な狂人であった。


 彼がいつの段階から誤った思想――奪ったことが彼の罪であり、誰かに自分を与えることでその罪が赦される、と考えるに至ったのかはわからない。ただ、彼はその贖罪を実行するため、あえて退行したように振舞っていたのだ。誰かが彼に心を許すように。彼の過去を知らず、警戒することなく接してくれる『誰か』をおびき寄せるために。


 後になって合点がいったことは、それだけではない。彼が凶行に使用した園芸鋏。あれは彼が病棟を脱走した時に盗んできたものだろう。盗んだ薬草はズボンの中に捻じ込んでいて、看護師に発見されて没収された。だが、鋏は裾まで落ちて靴に引っ掛かっていた。彼が「虫刺されだ」と偽った血痕はそのとき負った傷だ。さらに言えば、彼が盗もうとした薬草――麻酔にも使われるというあの薬草の使い道は……。


 最後に、エーネロ・バルビエリの顛末を記しておく。

 彼は再度の危険性が確認されたため、本病院に送られることになった。そこで再発防止の外科手術が行われるという。おそらく、彼が自分の考えを持つことは、二度とない。



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