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【 八月二十九日 】
正式な慰問ではないので記録していなかったが、あれから何度かエーネロ・バルビエリと顔を合わせている。
出歩きたがる患者は少ないのだが、彼はむしろ独りで病室にいる方が苦痛に感じるらしかった。毎日数時間は談話室で過ごしているという。
「修道士さま! ボク、聖書を読み始めたんです。修道士さまのお話をもっと聞きたくて」
先日もそんな風に明るく報告してくれた。教育は十分に受けられておらず、文字は辛うじて読めるといったところらしい。
彼の熱心さは微笑ましかった。姿こそ私より背の高い青年であるが、人懐こい彼と接し続けるうちに、段々と弟や甥のような気がしてくる。
ルカレッリ医師もエーネロのことは気に掛けているようで、事あるごとに私に彼の様子を訊いた。
「随分仲良くなったようですね。あなたには特別懐いているようだ」
ルカレッリは複雑そうな顔をしている。
ひょっとして主治医である自分よりも私に心を開いたことが面白くないのかも、と意地の悪い感情が湧き上がったことを認めなければならない。私の卑しいところではあるが、つい勝ち誇った気持ちになってしまった。
「私にとっても、彼と話すのは負担には感じません。素直な青年なので、むしろこちらの心が洗われるようです」
「はぁ、そうですか」
「ですから、どうでしょう? 改めて見舞いの時間を取っていただくというのは」
「うーん……看護師たちとも相談して、検討しておきます」
彼はこめかみを指でトントンと叩きながら窓の方へ目をやった。菜園に茂る瑞々しい緑がとても眩しく、それがこの病棟を一層閉塞的に感じさせる。
「実は、今朝彼が問題を起こしましてね」
「エーネロが?」
「門を乗り越えて脱走し、菜園から薬草をくすねたそうです。看護師が押収しました」
そう言えば、初めて彼に会ったのも、聖バシリオの敷地から脱走したところであったことを思い出す。
「前にも脱走しようとしていましたね」
「ええ。彼が盗んだ薬草というのが、幻覚を見せる作用のあるものでして。過去に依存症を患っていたことがあるのかもしれません。そんな報告は受けていませんが」
「幻覚って……なんでそんなものが菜園に?」
私は不審に思ったが、ルカレッリの説明を聞いて納得した。幻覚というのは効用の一つであって、正しく使えば麻酔の材料になるらしい。大変貴重なものだそうだから、菜園係の修道士たちはさぞ立腹しているだろう。
その話を聞いた帰り、私は思い立って談話室まで足を延ばした。エーネロがいないかと期待したのだ。
案の定、彼はそこにいた。
「修道士さま、こんにちは」
私を見て顔を綻ばせる。彼はわざわざ席を立って駆け寄ってきた。
「こんにちは、エーネロ」
私は軽い雑談を挟んでから、今日のことを話題に出した。
「聞いたよ、エーネロ。また病棟を脱走したそうじゃないか。私たちが育てている大切な薬草まで盗ってしまったそうだね。人の物を盗むのは大罪だ。そういうことをしてはいけないよ」
「ごめんなさい……綺麗な葉っぱだったんだもの……」
エーネロは素直に項垂れる。本当に、振舞いが叱られた子供そのままだ。
私は溜息と共に首を振った。と、下を向いた拍子に彼の足元が目に入る。ズボンの裾の方に赤茶色の染みができていた。
「エーネロ! 血が出ているんじゃないか?」
私は慌てて身を屈めたが、彼は気にしないでと押し止めた。虫刺されを掻き壊してしまっただけらしい。
「菜園に忍び込んだりするからだ。あとで看護師にきちんと診てもらいなさい」
エーネロは「はぁい」と元気に答えていたが、どこまでちゃんと頭に入ったのだろうか。
【 九月一日 】
今日またルカレッリ医師よりエーネロの話を聞いた。それまで私には隠されていた、彼が犯した罪についてである。
以下、聞いたことをまとめておく。
***
エーネロ・バルビエリは人を殺した。彼の恋人であった女性を手に掛けたのである。痴情のもつれによる衝動的な犯行であった。
嫉妬に狂った愛情が恋人の命を奪い、その結果を目の当たりにした時、彼は心の底から後悔した。取り返しのつかないことをしてしまったのだと、もう二度と恋人をこの腕に抱くことはできないのだと、絶望した。そして、もう動くことのないその肉体の行く末を考えた彼は、せめて肉体だけでも自分のもとに残したいと考えた。
エーネロが恋人を殺害してから、七日間が過ぎた。八日目にして漸く近隣住民が異変に気付き、犯行が露見したのだそうだ。
当然ながら、発見された時には遺体は腐敗が進んでいた。季節は雪解け水が大地を洗い流す頃のことであったので、エーネロがどれほど強く香を焚いても、その腐敗臭は隠しきることができなかった。部屋に踏み込んだ人々は、そこで悍ましい光景を見た。
遺体はベッドに寝かされていた。エーネロ・バルビエリはその隣に腰掛け、延々と彼女の裸体を撫で回していたのである。
傍には水桶と医療用のアルコール。ピンセット。黴の生えたパン。彼は恋人の体をアルコールで拭いてやりながら、時折死肉を食い破る蛆虫を摘出しては、それを自分の口に放り込んでいた。彼はこの七日の間、パンと水、それから恋人を貪って育った蛆を食べて生き延びていたのだ。
もう、何年も前の話だ。彼は当然ながら有罪判決を受け、投獄された。ルカレッリの言っていた「エーネロが前にいた施設」とは、病院でなく監獄のことだったのである。
基本的には模範囚であったエーネロだが、しばしば他の囚人や看守を巻き込んで騒ぎを起こすことがあった。あの子供っぽい人懐こさで特定の人物に付き纏い、拒絶されたと感じると怒りで暴走してしまう。それは、彼が恋人を殺してしまった時とまったく同じ状況であった。
結局、彼は精神病の診断を受けて、聖バシリオに移されることになった。独房に入れるほどの重罪人ではなく、かと言って他の囚人と関わらせると面倒を増やす。体のいい厄介払いということだろう。
***
「そんな……そんな危険な人間を自由に歩かせておいていいのですか?」
信じられぬ想いで私が問うと、ルカレッリ医師は躊躇いがちに肩を竦めた。
「一応、もう危険な兆候は見られませんからね。ここは病棟であって監獄ではない。我々の判断材料は過去の罪ではなく、現在の病状なんです」
とは言え、と彼は付け足した。
「ああいった衝動を秘めている人間は、それが一度顕現してしまってからでは、次に何が引き金になるかわからないものです。我々ですら、彼と二人きりにはならないよう気を付けています。フラ・トマゾ、どうかあなたも油断だけはしないように」
「私の見舞いを許可しなかったのも、それが理由ですか……?」
「はい。彼にはストレスを与えないよう可能な範囲で自由にさせつつ、同時に常に監視下に置いておく必要があります。談話室ならともかく、病室のような隔離された空間での面会を許す危険は冒せませんでした」
背筋が冷たくなっていた。同時にこれまでのルカレッリの不自然な態度にも納得がいく。加えて、今まで秘密にしてきたその事情を、ここにきて私にも打ち明けたということは。
「フラ・トマゾ、あなたはエーネロと大変親しい間柄にあります。現在の彼にとっては、最も親しいと言っても過言ではないでしょう」
ルカレッリは改めて私の目を見据えた。そこに普段の気楽さは無く、これが極めて重大な事項であると訴えていた。
「彼の最初のトリガーは恋人に対する嫉妬。つまり、愛情でした」
「しかし、私は同性です! いくら彼が心を開いてくれていたとしても、それは――」
「――少なくとも、肯定的な感情です。彼が獄中で起こしたトラブルも、常に恋愛関係があった訳ではありません。『自分が気に入っている人が他の人と仲良くしていた』、たったそれだけのことで、彼にとっては十分である可能性があるんです」
彼は私の反論を遮って言った。
いくらエーネロが今一番心を開いている相手が私だったとしても、それが愛情や嫉妬と結び付くというのは到底理解できなかった。これまで交わした会話のどこにも、私と彼が特別な関係性と言えるような要素はなかったはずだ。
「……落ち着いてください。あくまで可能性の話です。エーネロとはこれまで通り接してくださればそれで構いません。ただ、用心さえ怠らなければ」
きっと私は途方に暮れた顔をしていただろう。これまで通りに、と言われたところで、こんな話を聞いてなお平常心を保っていられるだろうか。
いや、そんな風に思ってはいけない。
罪を憎んで人を憎まず、という言葉がある。彼のような人間こそ、慈悲と赦しを与えるべき存在ではないのか。
あれから何度もエーネロの顔を思い浮かべた。愛故に恋人を殺め、狂気に走ってしまった彼は今、こんなにも無垢で清らかな笑みを浮かべている。
彼を退行させたものはなんだったのか。それは恋人を失った悲しみ、または罪の意識だったのではなかろうか。それならば、私の務めはそれを認めてやることだろう。
いつか彼が、己が罪と正面から向き合う勇気を持てる時まで。
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