Ep.5 愛情深きエーネロ

5-1

【 八月十一日 】


 菜園で九時課の務めを果たしている時のことだった。連日の雨のために根元の葉が傷んだ株が多く、畝を回って不要な葉を摘み取る必要があった。


 何やら騒がしい声に気が付いて顔を上げると、菜園の一角に人が集まっていた。修道士たちが一人の青年を囲んで責め立てているように見える。私も呼ばれてしまったので、渋々手を止めてそちらに向かった。

 話を聞くと、その青年は聖バシリオから抜け出してきた患者らしい。菜園をうろついていたのを発見し、数人がかりでやっとこさ捕まえたのだそうだ。彼は整った顔立ちの立派な若者に見えたが、追い回されたことに驚いたのか、泣きそうな顔になっていた。


「大丈夫かい? さあ、一緒に病棟へ帰ろう」


 私がそう話し掛けると、彼はパッと表情を安心へ変えた。以降は特に暴れることもなく、すんなりと看護師に引き渡すことができた。


 後でルカレッリ医師に訊いたところ、あの青年はエーネロ・バルビエリといい、最近九号室に入院することになった患者だそうだ。聖バシリオに来る前は、別の施設に入所していたらしい。


「快活そうな青年でしたが。入院するような必要があるのですか?」


 私が訊ねるとルカレッリは口を濁した。


「念のため、ですかね。彼はもう長いこと治療を続けているので、目立つ症状は殆ど治まっているんですよ」


 とはいえ、精神病者が見かけによらないことは私も重々承知している。温厚そうに見えて、ある日態度が急変したり、発作的に破壊衝動を引き起こしたりなど、彼らの人格とは別の部分が顔を出すことがあるのだ。聖バシリオに送られる患者の多くは、そうした魔物のような病気モノを心の内に宿している。


 エーネロについて、ルカレッリはそれ以上のことを教えてくれなかった。彼は私が見舞う対象ではないため、患者の個人的な情報は明かせないと言う。不躾に人の秘密を根掘り葉掘り探るような人間と思われるのは嫌だったので、私もそれ以上訊ねはしなかった。



【 八月十六日 】


 先日のエーネロ・バルビエリと顔を合わせる機会があった。私はリリィの病室から帰るところで、彼はちょうど病室から出てくるところだった。


「あれっ、こないだの修道士さまだ」


 エーネロは私よりいくらかは若いだろうけれど、それでもとうに成人した大人の男性だ。彼はそんな歳には似つかわしくないほど純真無垢な表情を見せる。


「ここで何をしてらっしゃるんですか?」

「お見舞いだよ」

「いいなぁ。お知り合いが入院してるんですか?」

「いいや。患者たちを見舞うのが私の務めなんだ」


 するとエーネロは目を丸くし、子供のようにふくれっ面をした。


「えっ。でも修道士さま、ボクのところには来てくれてませんよ」

「すべての患者という訳ではないからね。祈りや傾聴を必要とする者を訪ねている」

「ということは……ボクもルカレッリ先生にお願いすれば、修道士さまに会いに来てもらえるんですね?」


 私はおそらくそうだと思う、と曖昧な返事をした。人懐こいエーネロには良い印象を持っているが、正直言って彼に慰問が必要だとは思えなかったからだ。多少の退屈は感じているようだが、天真爛漫な彼に思い悩んでいることがあるようには見えない。


「じゃあ、先生に訊いてみます!」


 エーネロは無邪気に両手の拳を握り、小鹿のように跳ねながら去っていった。



【 八月十八日 】


 ルカレッリの方からエーネロの話が出ることがなかったので、私から彼に確認してみた。すると彼は、確かにエーネロから要望があったが、許可はできないと断ったと言った。


「あなたもお考えのように、彼にはその必要性がありませんし」

「しかし、私に来てほしそうでしたよ」

「まあ、彼には見舞いに来てくれる人はいませんからねぇ」


 そこで私は合点がいった。「見舞いだ」と答えた時にエーネロが羨んでいたのはそういうことだったのか。そう思うとなんだか気の毒である。


「彼は寂しいのではないですか? 私が訪ねることで孤独感が埋められて、症状も改善するかもしれませんよ」

「あー……まあ、そうかもしれませんね」


 子供っぽい態度を取る患者については、私にも少しは事情がわかるようになった。これまでにも何人か見てきたし、書物での勉強も欠かしていない。

 人間に備わる防衛機制として、心身に強い負荷を感じた際に、退行現象が起こることがあるのだそうだ。私の見立てでは、エーネロの不自然な無邪気さもそれに近いものだろう。


修道士フラ・トマゾ、あなたもかなりこの分野に詳しくなりましたね。あなたは本当に勉強熱心な方だから」


 その推測を打ち明けると、ルカレッリは何とも言えない顔をした。例の如く、彼の賛辞は嫌味の気配を感じずにいられない。


「お見込みの通り、エーネロには退行が見られます。ただ、僕は……彼はあのままでいた方がいいのではと思うんです」

「え?」


 彼は慎重に言葉を選びながら続けた。


「防衛機制についてご存知なら、どうして彼がああなっているのかもおわかりでしょう。心が自分を守ろうとしているんです。それはつまり……そう、本来の彼では耐え切れない苦痛があるということで」


 やっと私にも、彼が言いたいことがわかった。

 エーネロは今のままで幸せなのだ。彼にどんな辛い過去があるのかは知らないが、彼の本能は自分を守ろうとしている。その結果があの明るさなのであれば、無理に現状を変えさせようとするのは酷な話なのかもしれない。


「幸いにして、彼の退行は重篤とは言えません。日常生活に必要な行為は誰の手も借りずに行うことができますから――」

「でも、それは……彼が苦痛を乗り越える機会を奪うことになるのでは?」


 ルカレッリは首を振るだけだった。

 あの青年はそれほどまでに重たいものを抱えているのか。あの無邪気な笑顔の下に。


「いったい彼に、どんな過去が……?」

「言えません」


 私は唇を噛んだ。私が救えた患者はとても少ない。正しく私を必要としてくれているのに、何もしてやることができないなんて。

 私の苦悩を見かねて、ルカレッリ医師は優しい声で付け加えた。


「それにほら、修道士さまもお忙しいでしょう。あなたの素晴らしい人徳のおかげで、あなたの訪問を待ち望む患者は後を絶ちません。これ以上見舞いの数を増やすのは、あなた自身の負担を考えても推奨できませんよ」


 それは、その通りだった。私自身が精力的に引き受けていることもあるが、日々の務めの中で聖バシリオの慰問が占める比重は大きくなっている。そして、私自身の負担という意味でも。悲劇のうちに最期を遂げた患者たちの記憶が、私を苛み続けているのだ。


 エーネロの退行状態だって、ルカレッリの言うことが正しいのかもしれない。自分の仕事に意義を見出したいという私のエゴイズムの表われに過ぎないのかもしれない。

 それでも、孤独を辛いと訴えるのは、人として当たり前の権利ではないか。


「では――」


 私は躊躇いつつ口にした。


「慰問という形でなく、簡単な立ち話をするくらいなら構わないでしょう? 談話室で偶然出くわした時なんかに、ちょっと言葉を交わす程度なら」

「まあ、それなら……」


 ルカレッリは渋々といった様子で了承した。私とエーネロ、両方の心情を汲んでくれたのだろう。

 今後、もし聖バシリオでエーネロ・バルビエリを見かけることがあれば、必ず声を掛けてあげようと思う。


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