4-3
***
確かにこれは人間ではない、と思った。かといって犬や狼であるはずもなく、ルカレッリが「人狼」という言葉を使ったのにも頷けるのであった。
アダンは四つ足で立つために尻を高く上げていた。辛うじて衣服だったものを身に着けてはいるものの、髪は脂ぎって絡まり、伸び放題の髭と髪には境界も無い。頬からは肉が落ち、頭蓋骨の形がそのまま浮き彫りになっていた。そのために、こちらを睨む憎悪の眼差しはより人間離れして、まさしく彼は獰猛な獣の様相をしていた。
「一応足枷を付けていますが、何があるとも限りません。部屋には入らないでください」
ルカレッリはそう言って扉の前を私に譲ったが、言われなくたって、好き好んで足を踏み入れる者はいないだろう。私は言葉を失ったまま部屋の入口に立ち尽くした。
「僕が話し掛けても無駄でした。完全に獣になりきっています」
聞けば、世話をしようと近付いた看護師に噛み付いて怪我を負わせたという。今も私に向かって黄ばんだ歯を剥き出し、喉の奥を擦るような唸り声を立てている。
「人の言葉が届かなくとも、神の御言葉こそ届きますように……」
私はその場で跪き、主の祈りを唱え始めた。そして、語り掛ける。
労わりの言葉を。
想像を絶する痛みと恐怖の中で、それでも娘への愛に身を捧げんとした彼の行いに。
慰めの言葉を。
その苦痛すら上回る残酷な不条理に、壊れてしまった彼の心へ。
言葉は空虚だろう。彼の負った悲しみは私には計り知れない。けれど、言葉の下に込められた憐憫だけは届いてほしいと、私は願った。
すると、どうだろう。
アダンは唸り声を上げるのをやめ、蹲るようにして腰を落ち着けたではないか。
「なんと……」
背後でルカレッリが息を呑むのを聞いた。
「アダン――」
私は膝をついたまま彼に向かって両手を差し伸べる。彼はそれ以上の反応は示さなかったが、私はこちらを見るその目の中に、人間らしい知性の片鱗と涙の粒を見たのだった。
「……今は休みなさい、アダン。主の導きがあなたの傷を癒しますように。いつかあなたが悲しみの淵から脱することができますように」
そして立ち上がった私に、ルカレッリは感心したように声を掛けた。
「これは……希望が見えましたね。神はあなたの祈りを聞き届けてくださったようだ」
『――だが神は、俺の祈りは聞いてくれなかった』
私はハッとして振り返った。汚れの詰まった黄色い爪が眼前に迫っていた。もしも咄嗟にルカレッリが引き寄せてくれなかったら、完全に油断していた私は、アダンの尖った爪に絡め取られていただろう。
驚きで声も出せずにいると、アダンは部屋の奥へ下がってもとのように丸く身を縮めた。再び低い唸り声を発しており、その声は私たちの一挙一動に応じて大きくなった。虚ろな目に涙は無く、そこにいるのは人でも狼でもない、名も無き一頭の獣であった。
***
ルカレッリは何も聞こえなかったと言っていたが。
あれは確かに彼の声、彼の言葉だった。
あの一瞬、アダンは正気を取り戻したとでもいうのだろうか。
だとすれば、その意味は。あんなにも悲しく絶望に満ちた言葉を、私は他に知らない。
あの後、私はルカレッリの部屋でもう一度気付けの紅茶をもらわなければならなかった。それほどまでに激しく動揺しており、茫然自失になっていたのだ。
カモミールの柔らかい香りが鼻に抜けるのを感じることで、私は少しずつ落ち着きを取り戻した。それと同時に、あの瞬間に自分が『見てしまったもの』についての理解を進めてしまった。
「ね? 何があるかわからないって言ったでしょう?」
ルカレッリはそう言って茶請けの砂糖菓子を出してくれる。いつにない好待遇だ。私はそれには手を付けず、掠れた声で彼に問う。抱いた猜疑を晴らすために。
「ドットーレ・ルカレッリ……もしかして、彼は――」
ルカレッリは悲しげな瞳で私を見、それから黙って首を振った。普段の飄々とした彼らしくない苦痛が、その目の中にあった。
アダンが私に飛び掛かった瞬間。私は立ち上がった彼の足元に、床にこびり付いた黄みがかった染みを見た。それは拭き取った――あるいは舐め取った――跡があったけれど、部屋に籠るすえた臭いから察するに、アダンが吐き戻したものだろう。
その中に散らばっていた小さな白い破片。あれは人の歯ではなかったか。
その光景は、図らずも私に真相を仄めかす。
なぜ、アダンは自らを畜生と思い込んでしまったのか。
彼が狂気に堕ちた、あの日、あの瞬間。
飢餓に駆られていたのは、愛犬だけではなかったのだから。
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