4-2
***
患者の名前はアダン・ルーポ。
歳は四十半ばで、職業は猟師。半年前に妻を病気で亡くし、人里離れた山奥に十歳になる娘と二人で住んでいる。また、灰色の大きな犬を猟犬として飼っていた。
アダンの家は食糧難に直面していた。麓の町では流行り病の影響で、例年より物価がつり上がっていた。更に、僅かな貯えは妻の治療費にあててしまったため、日々の食事すらままならない状況にあった。
その日、アダンは山に入ることを決意した。普段であれば犬も一緒に連れて行くのだが、犬は前回の猟の際に負った怪我が完治していなかった。娘には数日もすれば戻るからと告げ、できる限りの食料を残していった。
もはや庭のように慣れた山だ。それでも深くは入らず、兎か山鳥でも数羽仕留められたら帰ろうと思っていた。
ところが、彼はどんどん奥へと進んでしまった。これは私の憶測に過ぎないが、彼は何か大きな獲物――鹿か猪でも発見したのだろう。夢中になって獲物を追ううちに、勝手知ったる道を外れ、森の深部へと迷い込んでしまったのである。
不運はさらに立て続く。
アダンは足を滑らせ、崖下へと転落してしまった。なんとか一命は取り留めたものの、足が折れていて歩けそうにない。全身の打撲も酷かった。彼は手近なもので応急処置をし、動けるようになるまでその場で身を休めた。
痛みと発熱で朦朧とする中、彼を生かしたのは娘への愛であったに違いない。魘されながら何度も娘の名を唱えた。先に逝ってしまった妻に祈ることもしただろう。
持ち込んだ僅かな食料はすぐに尽きてしまった。幸いにして沢の傍だったため、飲み水だけは困らなかった。
何日そうしていたかはわからない。だが、彼はついに立ち上がった。杖代わりの枝に縋り、足を引き摺りながら下山を始めたのである。
行く手を阻むのは深山の悪路と怪我の痛みだけではなかった――獣たちだ。
血と汗の臭いを纏う手負いの人間に、獣たちが気付かないはずもなく。保護された時のアダンの全身には、野犬か狼と思しき動物の歯型や爪痕が残されていた。
痛みと絶望、獣の強襲、娘を想う焦燥。彼を腹に収めんと狙いを定める獣たちに向かって杖を振り回しながら、彼の精神は徐々に安定を失っていった。夜の闇は彼を狂気へと誘っただろう。姿無き獣の影に怯えるうち、『何か』がアダンの心に潜り込んだ。
それでも、ついに。彼は辿り着いたのだ。もはや執念とも呼ぶべき娘への愛が、彼を見慣れた山小屋へと導いた。泥と血に塗れたその姿は獣と見紛う有様だったけれど、転げるように、折れた足を引き摺って我が家の門をくぐった。
静まり返った家。いつもなら喜びの声を上げて迎えに出てくる娘の姿が無いことに。寒空に消える煙の臭いがしないことに。そして、窓に明かりが見えないことに。彼の心はざわめいた。
目よりも先に、耳が、鼻が、異変を捉えたかもしれない。暗闇に向かって開け放たれた扉。静寂と思われたが、ペチャリ、クチャクチャという微かな音が漏れ聞こえていた。
愛犬が彼の帰宅に気付いた。本来ならもっと早く気が付いても良さそうなものだが、主人の帰宅よりも注意を引くことがあったのだろう。遅れて姿を見せた犬は、その灰色の巨体をべったりとどす黒いもので汚していた。
ドッと汗が噴き出した。心臓が破裂せんばかりに鼓動を打ち、アダンは犬を押し退けて奥に突進した。
そこで、彼が見たものは。
食い荒らされた、娘の死体だった。
アダンはついに正気を手放した。ここまで彼を駆り立てていたものが、娘への愛が、今度は彼を狂気に陥れたのである。彼は絶叫と共に愛犬を撃ち殺した。だが、その銃口を自身にも向けた時には、救いの弾丸はすべて使い果たしていた。
それから彼がどうしたのかはわからない。ただ、彼が娘の死を発見してから数日後、彼は麓の町で発見された。家畜小屋で鶏を食い散らかしているところを捕獲されたのだそうだ。
アダンは既に人間であることをやめており、二度と人語を解することはなかった。伸びた髭と髪は獲物の血で固まった房をつくり、四つ足で走る姿はまさに野獣そのものであった。彼は家畜泥棒として裁判に掛けられたが、彼が送られたのは刑務所ではなく精神病院だった。
***
「飼い主の死後、餌をもらえなくなった犬や猫が主人の遺体を食べるというのは、決して珍しい話ではありません」
ルカレッリはそう言って話を締め括った。私は何も言葉を発することができなかった。辛うじて込み上げたものを飲み下し、祈りの言葉を唱えることで心を落ち着かせた。
これを悲劇と言わずして何と言おう。
アダンの娘は父が家に戻るのを愛犬と共に待ち続けた。「数日」と言って出て行った父は、残されたなけなしの食料を食い尽くしても戻らない。周囲を森に囲まれた山小屋で、娘は誰に助けを求めることもできずに餓死してしまったのだ。同じく飢餓にあった犬は、その遺体を食べることで生き永らえた。
娘よりも先に犬が死んでいれば、また違った結末があったに違いない。けれど、幼い子供よりも大型の猟犬の方が生命力が強いのは、仕方のないことだろう。仮に犬が先に息絶えたとして――または、少女に犬を屠ることができたとして――少女が適切に犬を解体、処理できたとは思えないが。
「気になっていることがあるんです」
沈痛な空気を掻き消すようにルカレッリが言った。
「なぜ、アダンはあのようになってしまったのか」
「狼の……犬のように?」
「そこに大した違いはないでしょう。ですが、今の彼はまさしく『人狼』です。疑問なのは、彼が自分を犬または狼だと思い込むようになった理由ですよ。娘の死、さらには遺体が飼い犬に食い荒らされているのを目撃し、あまりの衝撃に気がふれてしまったのはわかります。ですが――」
「――なぜあえて最も忌むべき存在に同化してしまったのか、ですね?」
私は後を継いで言った。ルカレッリは重々しく頷いている。
確かに不可解ではあった。たとえ娘の死の責任が犬には無かったとしても、愛犬がしたことは手酷い裏切りに見えただろう。極端な話だが、飼い犬への憎悪がきっかけで、犬という犬を虐殺するようになった方が、まだ理解できるのだ。自分自身がそれに身を落とすなどということは。
「……まあ、考えても答えなんて出ないんですけどね」
ルカレッリは肩を竦めるなり立ち上がった。
「飲み終わりました? よければ早速アダンに会わせたいと思うんですが」
私は冷めた液体を急いで飲み干し、彼の後に従った。
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