Ep.4 アダンの犬

4-1

【 八月一日 】


 昨日の朝からだ。修道院で飼っている犬がやけに吠えるようになった。

 彼らは猪や狼といった害獣から家畜と農作物を守るための番犬で、普段は家畜小屋の隅で寝起きしている。大変賢い犬たちだ。滅多なことでは無駄吠えなどしないのだが。ちょうど正門の方に向かって盛んに吠えたてるので、終いには長い鎖で繋いでおかなければならなくなった。


 そんな話をルカレッリにした。今日の慰問を終えて、彼の部屋で紅茶をいただいていた時のことだ。犬の吠え声は当然彼の耳にも入っていた。


「昨日の朝からですか。ふむ……」


 私はここに来る途中で気が付いたことを打ち明けた。


「てっきり犬たちは敷地の外に向かって吠えているのだと思っていましたが、家畜小屋から見て正門の方角と言えば、この精神病棟も当てはまるのではと。何か心当たりはありませんか?」

「残念ながら――」


 ルカレッリは茶器を置きながら溜息を吐いた。


「ありますねぇ、心当たりが」

「えっ。本当ですか?」


 いつもなら彼のわざとらしい前置きは私の癪に障るのだが、この時は好奇心が勝っていた。重ねて言うが、修道院の犬たちは賢いのだ。彼らがここまで反応するのは余程のことに違いない。

 ルカレッリは辺りを窺うように声を潜めて私に訊ねた。


修道士フラ・トマゾ、あなたは人狼というものを聞いたことがありますか」

「人狼、ですか?」


 私は馬鹿にした声で訊き返してしまった。

 人狼――俗に言う狼男とは、満月の夜に狼へと変貌してしまう呪われた人間のことだろう。もっとも、そんなものは子供を夜の森に近寄らせないためのお伽噺にすぎない。

 ところが、ルカレッリは私に困ったような微笑を向けた後、神妙な面持ちとなって言ったのだ。


「やはり修道士さまはそんなものは信じておられない?」

「ええ。主がそんなものを創りたもうはずがない」

「確かに、満月の夜にのみ人間が狼のように骨格を変えるというのは、医学的にも考えられない話です。ですが、僕が言っているのは変身する方ではなくて、人間のような狼――または、狼のような人間のことです」


 私は眉を吊り上げた。私はこの質問をルカレッリからの挑戦だと受け取ったのだ。


「考えてみましょう。まず、人間のような狼……これは、可能性はゼロでは無いと思います。修道院の犬たちですら、餌を前にすると後ろ足だけで立ち上がります。また、十一世紀に北方の国で、三年間に渡り王として街を統治した犬がいた、という伝説があるそうです。私にしてみれば、眉唾物ですが」

「では、狼のような人間は?」

「人間のような狼よりももっと現実的な話ですね。十六世紀にフランスで、全身が毛で覆われた獣のような赤子が生まれたという逸話が残っています。また、あなたのご専門――精神医学の分野で考えるならば、『自分を狼だと思い込んでいる人間』といったところでしょうか。『ダニエル書』四章にて、驕ったネブカドネザル王は人の世を追われ、野の獣と草を分け合い、七年の後に理性を取り戻します。この七年の間、王は『人狼症』であったと見做す説があると聞きます」


 私は相手の反応を窺う。ルカレッリはやや首を傾げ、赤茶の髭の中でにっこりと笑った。


「素晴らしい。あなたも精神科医になれますよ」


 そんなわざとらしい称賛を私は紅茶で流し込む。彼は頬杖をつき、指で頬をトントンと叩きながら話し始めた。


「昨日新しくうちに入院した患者は、まさしく後者にあたります。修道院の犬たちが反応しているのは、彼のことだと思うんですよね」

「待ってください。あくまでも人間ですよね? お医者様ドットーレ、あなたは犬たちの様子を見ていないからそんなことをおっしゃるのです」


 するとルカレッリはさも心外といった様子で言い返した。


「修道士さまこそ、その患者を見ていないからそう思うんですよ」


 私たちは束の間睨み合ったが、ついにルカレッリが肩を竦めた。


「まあ、実際に見てもらった方が早いでしょう。見たいですよね?」


 そして、彼は新しく受け入れた患者について話し始めた。

 以下はその内容をできるだけ復元したものになる。後述の理由により、私の推測から一部脚色している。また、あまりにも悲劇的で胸を痛めるものであることも、前もって告げておく。


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