存在しないはずの病棟の話

「この精神病棟にはね、存在しないはずの病室があるんですって」


 リリィは私に対して教師のように振舞うのが好きなようだ。この話をした時も、可愛らしい人差し指を意味ありげに振っていた。


「存在しないはずの病室が存在したら、それはもう存在する病室になるんじゃないかな?」


 私がそう口にすると、彼女は興を削ぐなとあどけない顔を顰めた。


「修道士さま、あたしはそういう小難しい話をしたいんじゃないの。その部屋は、結局は『無い』のよ」


 要点をまとめるとこうだ。その部屋は確かに存在していない。にもかかわらず、別の入院患者から「その病室の患者がうるさい」と苦情が出たり、回収した食器が綺麗に一人分足りなかったりするのだそうだ。

 その程度の話ならいくらでも説明がつくだろうと私が言うと、彼女はまたしても指を振った。


「看護師さんにも訊いてみるといいわ。不自然なくらい、こういう話がたーくさん出てくるんだから」


 実際にその部屋に入った者はいるのか訊いてみたが、残念ながらそういう例は無いらしい。その代わり、場所の目星はついているという。過去の患者たちの証言をまとめると、その病室は十二号室と十四号室の間にあると推測される。この病棟に十三号室は存在しないから、まさしく壁の中にあると言わざるを得ない。


「この話の一番気味が悪いところは」


 リリィは小馬鹿にした私の様子を見透かして、お仕着せるように話を続けた。


「その部屋に関する証言に、共通する点があることよ。患者は何度も入れ替わっていて、他の人の証言なんて知らないはずなのに」


 その共通点とは、子供の存在だという。夜中に子供が走り回る足音が聞こえたり、子供の笑い声が聞こえたり。直接姿を見た者はいないけれど。


「野良猫じゃないのかい?」

「修道士さまは猫が人間みたいな足音を立てるのを聞いたことがあるの?」


 口を引き結ぶ私に、勝ち誇った顔をするリリィ。彼女は意味ありげに指を唇にあて、声を落として囁いた。


「ねえ、この話には続きがあるの。修道士さまはよく夢を見る?」

「夢か。そうだね。たまには見るかな」

「じゃあ、夢が本当は何なのか知ってる?」


 私は少し考えた。ルカレッリに借りた本には何と書いてあっただろうか。


「確か……頭に残った記憶の断片をバラバラに繋ぎ合わせて思い出しているんじゃないかな?」


 真剣に答えたつもりだったのだが、リリィに全力で鼻を鳴らされてしまった。救いようが無いとでも言いたげな呆れ顔で私を見る。


「修道士さまは本当に何にも知らないのね」

「……少なくとも、君よりは色んなことを知っていると思うのだけどね」

「目に見えるだけがすべてじゃなくってよ」


 彼女はつんと顎を突き上げる。まだ小さな女の子のお澄ましした顔は可愛いものだ。私は苦笑を噛み殺し、大人しく傾聴することにした。

 リリィによれば、この世界には表と裏の二つの世界があって、夢というのはもう一つの世界を覗き見している状態なのだそうだ。


「修道士さまは夢は記憶だなんて言うけれど、まったく見たこともない場所や人だって出てくるでしょう? あれはそういうことなのよ」

「どうして世界に表裏があるんだい?」

「知らない。でも、あるんだからあるのよ。神様がそう創ったんじゃなくて?」

「リリィ、聖書にはそんなこと書いていないよ」

「『こっちの』世界ではね。あっちの世界の聖書には書いてあるかもしれないわ」


 リリィは突拍子もないことばかり言うが、こういう切り返しを瞬時にできるくらいには賢い子供だ。だからこそ、私も呆れつつ――時に意地悪を挟みながら――彼女のたわいもない噂話に付き合っていられる。


「――で、それがさっきの話とどう繋がるんだい?」

「ふふ。まだわからない?」


 彼女は散々もったいぶってから答えた。


「存在しない病室ってのは、あっちの世界にだけ存在しているのよ。それが何らかのきっかけでこっちの世界にも現れたり、音だけが聞こえたりしてるってわけ」


 言いたいことはわかったが、それで説得される気にはならない。茶化すように聞き流した私に、リリィはまたしても指を突き付けるのだった。


「ふん。修道士さまったら、全然信じる気が無いのね。うっかりあっちの世界に迷い込んじゃっても知らないんだから」


 そんな世界があれば見てみたいものだ。むしろ、別の世界があればいいとすら思っている。

 なぜなら。

 もしも本当に存在しないはずの部屋があり、そこに子供がいるとしたら。それが幻覚でも別の世界でもないとすれば、その子はこの病棟のどこかに監禁されているということになってしまうではないか。


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