Ep.3 話好きのリリィ

泣き女の話

【 日付無し 】


 聖バシリオ精神病棟に小さな子供まで入院していると知った時は大層驚いたし、可哀想に思った。

 一般病棟の患者は昼間、敷地内に限って自由に出歩くことが許されているが、行くあてなんて談話室と中庭くらいのものだ。歳の近い遊び相手もいない。子供が過ごすには、あまりに孤独で退屈だろう。


 そんな訳だから、私は時間を見つけては、その少女の話し相手になってやっていた。


 リリィという、本名とは何の関連も無い渾名を好むこの少女は、物心ついた時から聖バシリオにいるらしい。ただし、「物心ついた」というのは彼女が自覚してからという意味であって、それ以前の時間が長いのか短いのかは判断に困るところだ。なぜなら、精神病患者は往々にしてせん妄状態にある時のことを覚えていないため、単に彼女が長いと思い込んでいるだけの可能性もあるからである。加えて、暦はおろか、時計すら無い病室では、自分がどれほどの時をここで過ごしたのかわからない。


「でも、もう長いことここで暮らしていると思うわ」


 リリィは入院歴の長い自分のことを『聖バシリオの長老』と称しており、この病院で起こるありとあらゆる奇怪な事象を収集していた。それらの多くは噂話の域を出ないが、そのうち興味深いものをいくつか記しておく。



◆ 泣き女バンシーの話


 泣き女とは、スコットランドやアイルランドで語り継がれる物の怪や妖精の類だそうだ。本来は死者が出ることを予言する存在で、泣き女が出た家は名家とされることもある。よって、ここで出てくる泣き女は、本来のソレとは異なっている。


「だって、他に言いようがないんだもの。だからあたしは泣き女って呼んでるのよ」


 リリィはそう前置きをしてから、泣き女の噂を語り始めた。

 深夜、孤月が西へ向かい始めた頃。泣き女は西棟の廊下に現れる。彼女はいつも絶叫している訳ではない。その代わり、常に何か長いものを引き摺る音を連れている。


「ズル……ズル……って。その音が廊下の奥から段々と近付いてくるの」


 そんな夜は毛布を頭まですっぽり被ってやり過ごすのがいい、とリリィは言った。そうしなければ、窓から差し込む月明かりで、彼女の姿が見えてしまうから。


「泣き女は月の明るい晩にしか現れないのよ。そして、一部屋ずつ病室を回って、患者の顔を確かめようとするの」


 ソレは実体を持たないため、施錠された扉も意味を為さない。するりと通り抜けて部屋に入って来るのだそうだ。足音は無く、ただズルズルという音と人の気配だけが、その入室を告げる。


「君も泣き女に会ったことがあるのかい?」


 私が訊ねると、リリィは得意になるのを押し殺した神妙な顔付きで頷いた。


「あるわ。だけど、ちゃんと顔を見ないようにしたから大丈夫」


 泣き女の顔を見てしまうとどうなるか。曰く、連れて行かれてしまう――死の淵へと。

 噂では、泣き女の顔は言葉にするのも躊躇われるほど恐ろしいのだそうだ。薄汚れたボロボロの衣服。妙に長い首のため、壊れた玩具のようにズレたところに頭がある。顔はひしゃげて、目玉と舌が零れて垂れ下がっており、その色はどす黒い。

そして、人よりも遥かに高い背を屈め、寝ている患者の顔を覗き込むのだ。

 血走った目が患者の顔を捉えると、泣き女は耳を劈く大声で絶叫する。それは身も千切れんばかりの悲しみを訴えており、何十何百という声が重なっていた。あまりに悍ましいその声は、人間の脆い精神を揺さぶるだろう。

 泣き女を見た患者はその日から恐慌状態に陥り、数日以内に死亡する。自ら首を吊って。


「だから、ね? あたし思うの」


 リリィは興奮気味に囁いた。


「ズルズルというあの音……あれはきっと首を吊ったロープやシーツの音なのよ。彼女はずっとそれを首に結び付けたまま、次の泣き女を探しているんだわ」


 泣き女の正体はこの地に縛り付けられた幽霊で、代わりを見つけないと天国にも地獄にも行けないのだ、とリリィは推理していた。

 そうだとしたら、あまりに恐ろしく、また悲しい話ではないか。次の泣き女となった者はまた新しい犠牲者を探す。その連鎖に終わりは無い。


 だが――次の犠牲者を見つけた泣き女がこの地を去るとは限らないのでは、と私は思う。


 ズル、ズルというあの音。あれが首吊りの名残ではないとしたら?

 これまでに捕らえた憐れな犠牲者たちを、引き摺り歩いているとしたら。


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