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【 六月十九日 】


 私のせいだ。これは私の責任だ。


 頭が痛い。思い出すだけで吐き気が込み上げ、息が苦しくて頭痛は酷くなっていく。

 今すぐにでも、あの凄惨な光景を忘れたい。私の弱い精神はあっさり音を上げ、聖バシリオで見たものを忘れようと自衛作用を働かせようとしている。


 けれど、それは許されないことだ。わかっている。

 私の罪を。ここにすべて記そう。


 午前十時、私は聖バシリオ精神病棟へ向かった。

 すでに顔を合わせている患者を見舞う。当然、トビア・アデージの病室も訪れるものと思っていたが、ルカレッリは不自然な態度で私を彼に会わせまいとした。


「トビアのことは、もう結構です。彼のことは忘れてください」

「忘れる? 何を言っているんです? 彼に何かあったのですか?」


 私は深く考えることなく問い質した。言葉を濁し、散々躊躇った後、彼は打ち明けた。


「トビア・アデージは、亡くなりました」


 言葉を失った。昨日の今日だ。信じられなかった。

 私は愚かにもルカレッリを疑った。何しろ、トビアが抱える病は心臓を止めるようなものではなく、自傷行為を防止するために腕を封じられてすらいたのだから。

 トビアは身寄りも無く、引き取り先も無い犯罪者だ。入院させておくだけ病床の無駄だ、と合理的なこの男ならば考えかねない――一瞬でも、そんな考えが過ってしまった。


 だが、トビアを殺したのは私だった。


 私は彼に会わせてほしいとせがんだ。ルカレッリは頑として了承しなかった。それでも必死で頼み込み、私はトビアの遺体に祈りを捧げることを許された。


「……ですが、先に言っておきますよ。トビアは酷い状態です。彼に会ったことを絶対に後悔するでしょう」


 私は、後悔してしまった。

 見なければよかったと、ルカレッリの言うことを聞いておけばよかったと、部屋を目にした瞬間に、激しく後悔してしまった。

 後悔は吐瀉物となって私の喉を焼いた。


 トビア・アデージはベッドの上に寝かされていた。両腕の布は外されている。目を覆う布も外されていたが、代わりに頭部全体に布が掛けられていた。その布の下には、顔の上半分が無かった。


 石の壁を燭台が照らし出す。そこには昨日まで無かったはずの、大きな十字が描かれていた。ちょうど手の平ほどの幅の、赤黒い線で。往復する掠れた線の中に、ゼリーのような黒い塊が散っている。


「トビアは無いはずの目で幻覚を見ると言って、頻りに自分の眼球を抉ろうとしていました。そのために腕に布を巻いていた訳ですが」


 ルカレッリは淡々と述べながら床を指差した。血溜まりに転がった大振りの十字架。その先端には、乾いた血液が付着していた。


「おそらくですが、彼はこれで眼孔を刺し貫いたのでしょう。しかし、それでは幻覚が治まらず、あのような凶行に至ったわけです」


 彼は熱の無い声で説明を続ける。

 壁に十字を描いた方法を。血の線に混じった黒い塊の正体を。

 なぜ、トビアの顔の上半分が無くなったのか。


 トビア・アデージはその命が尽きるまで、存在しない目を削ぎ落そうとし続けていた。



***


「あなたのせいではない」


 ルカレッリ医師は言う。


「彼の自傷癖を知っていながら、凶器となり得るものを見過ごしてしまった。これは主治医である僕の責任です」


 卑しく弱い私は、その言葉に甘えようとしてしまうだろう。

 だが、私が本当に悔い改めるべき罪は、哀れなトビアに十字架を渡したことではない。自分の手に負えないと感じた患者を、無自覚にも信仰を押し付けることで突き放してしまったことなのだ。


 私が慰問を始めてから、患者が悲劇に見舞われたのはこれで二件目だ。私は助けを求めるイサベルの声に気付けなかった。そして今回、トビアの死の原因を作ってしまった。


 私はもっと患者と向き合うべきだった。彼の言葉を聞き、彼の気持ちを理解し、彼に寄り添うべきだった。


 今からでも遅くないだろうか?


 トビア・アデージは無いはずの目で何を見ていたのだろう。それは何を意味していたのだろう。私が彼に言ったように、彼の後悔の表れだったのか。それとも――彼を責め続ける、何かもっと別のモノだったのだろうか。


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