2-2

 案内されたのは、修道院の私の僧房にも似た、簡素な木の扉であった。目の高さに覗き窓が付いている。

 私は控えめにノックをし、それから覗き窓の蓋を持ち上げようとした。そこにルカレッリから制止が掛かる。


「あ、顔はできるだけ覗き口から離しておいた方がいいですよ。患者によっては、手を突き出して目玉を潰そうとしてくることがありますので」


 私は衝撃で言葉を返すこともできず、ただ言われた通りにした。

 一般病棟の病室と大きな違いは見られない。固定の机と簡素なベッド。手の届かない高い位置に窓があるが、そこに鉄格子が嵌っていることが、他の病室との違いだろうか。

 患者の存在も視認できた。この部屋の住人――トビア・アデージは目が見えなかった。


「気を付けてください。もうかなり落ち着いてますし、ここに収監されてからは暴れたこともありません。ですが、彼は殺人を犯しています」

「殺人?」

「それも凶悪な、ね。宿を求めて訪ねて来た旅人を家に上げ、殺して目玉を抉ったそうです。彼の目がこうなったのは――」


 ルカレッリは患者の両眼に巻かれた包帯を指差した。


「――その罪への罰ですって」


 私は覗き窓を振り返らずにいられなかった。患者は大人しくベッドに腰掛け、動き回る様子は見せない。時折首を激しく振り、小声で何かを呟く程度だ。

 私は唐突な喉の渇きを覚え、唇を舌で湿らせた。


「……抉った目玉はどうしたんです?」

「旅人のですか? 呪い師に売ったらしいですよ」


 正直に打ち明ける。私は恐怖を覚えずにはいられなかった。そして、忘れようと努めてきた苦い記憶が疼くのを。

 しかし、私は己を奮い立たせた。相手が殺人犯であろうと、精神病患者であろうと、私がここですることは変わらない。主の教えを説き、祈り、心の平穏へ導くのだ。ポケットの中でロザリオを握り締めれば、込められた祈りの一つ一つが私を励ますように感じた。


「やあ、トビア。修道士さまが来てくださったよ。少しお話をしてはどうかな」


 背後からルカレッリが声を掛ける。

 トビア・アデージはその声を聞いて顔を上げた。正確に扉の方を振り向いたあたり、音である程度の動きは把握できるのだろうか。そんなことを考えていた私は、部屋に踏み込んで早々、何かに躓いて蹴っ飛ばしてしまった。

 カランと響く大きな音。やけに反響したその音に、患者はビクリと身を縮めた。

 私は屈んでそれを探り当てた。皿だった。薄暗がりに目を凝らせば、床の至るところに割れた皿の破片が散乱している。また、ベッドの周辺には、腐りかけた食べ物などの汚らしいものが落ちていた。ただでさえ薄暗くてよく見えない上に、今日の私は片目が使えないのだ。足元には一層注意しなければならなかった。


 やっとこさ正面に辿り着いた私に、トビアは言った。


「修道士さま……?」

「そうですよ。はじめまして、トビア」


 間近で見ると、彼は話に聞いたような凶悪な殺人犯とは到底思えなかった。私よりいくらか年上だろうが、細くて神経質そうな顎をしている。奇妙なことに、彼の両手には布が何重にも、まるで膨れたパン生地のように巻かれていた。

 彼が伸ばした腕を触ってやると、確認しているのかそのまま僧衣を弄り始めた。そして、唐突に扉を振り返って言った。


「俺を見るな。修道士さまと二人きりにしてくれ」


 ルカレッリは肩を竦め、言われるままに扉を閉めてしまった。待ってくれと言いたかったが、患者を前にして流石にそれはできなかった。

 扉が閉ざされると同時に心細さが沸き上がった。この狭い病室で、精神を病んだ殺人犯と二人きり。もう一度ロザリオを握る。私は心の中で祈りを唱えた。


「修道士さま……助けてくだせぇ」


 先に口を開いたのは患者の方だった。患者を見舞う時の常套句を呑み込んで、続く言葉に耳を傾ける。


「……見えないはずのものが、見えるんです。俺の目はもう、な、無いはずなのに。見えちまうんです。すぐ目の前に。アレが。あの光景がずっと」

「見える? 何が見えるのです?」


 私は彼に訊ねた。息の詰まりそうな静寂を破り、トビアが何かを言おうと喘ぐ音が聞こえている。


「――目、目です。あの男……俺が殺した男の顔が、ずっと目の前にあるんです」


 目。榛色の二つの瞳。

 それを大きく見開いて。あの時のように――トビアが目玉を抉った時のように、目の前で膝をついて。ずっと彼を見上げているらしい。


 想像した瞬間、背筋がゾッと寒くなった。咄嗟にそれを振り払う。


「聞きなさい、トビア。あなたはきっと己の罪を悔いておられるのです。だから、そういう幻覚を見るのでしょう。真っ直ぐに己が罪と向き合い、清らかな心で以って赦しを請いなさい。主はあなたを見捨てはしません」


 それから私は一心に主の教えを説いた。途中で何度もトビアが口を挟もうとしたが、彼の心を救えるものは主の導き以外に存在しないと私は知っている。彼が何か言い掛けるたびに、私の説教は熱を増した。

 その甲斐あってか、彼も段々と話に耳を貸すようになったし、最後には熱心に頷いていた……ように思う。


 共に彼のために祈りを捧げ、私が部屋を後にしようとした時、トビア・アデージは私にある物を求めた。


「トマゾさま、俺に十字架をくれませんでしょうか。机に置いておけるような、台の付いた大きな十字架を。ひ、独りでも主に祈りたいんです」


 もちろん、と私は答えた。それを聞いて、彼はいくらか安心したように見えた。


 十字架は先程届けてきた。そのついでにルカレッリに訊きそびれていたことを訊ねた。


「あの患者はなぜ両手に布を巻かれているんです?」


 ルカレッリ医師は事もなげにこう答えた。


「自分の目を抉ろうとするからですよ。可笑しいですよね、もう無いのに」



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