Ep.2 トビアの目に映るもの

2-1

【 六月十八日 】


 今日、初めて重症者用の隔離病棟に足を踏み入れた。そこで出会ったのもまた、大変興味深い患者であった。私にとっては、特別に。


 ところで、片目が使えないというのは大変文字が書きにくい。真っ直ぐ書けていないかもしれない。ルカレッリ曰く、よくある出来物だそうだ。放っておいても失明の心配は無いと言われたけれど、念のため湿布を貼ってもらった。


 頻りに眼帯を気にする私に、ルカレッリが神妙な顔で切り出したのが、例の患者の話であった。


修道士フラ・トマゾ。会っていただきたい患者がもう一人いるんですが」

「構いませんが……こんな有り様でも大丈夫でしょうか?」


 こんな有り様とは、左目を覆う眼帯のことを指している。普段この病棟で外科的な処置が行われることは無いためか、彼が施してくれたソレは、些か見栄えが悪く思えたのだった。

 もちろん、ルカレッリがきちんと大学で医学を学んだ人間であることは承知している。だが、治療の腕前はまた別の話だと私は思う。彼の飄々とした髭面を見るたびに、正直言って、私の不信感は募り続けていた。


 この時も、ルカレッリは赤茶けた顎髭を掻きながら、へらへらと笑って言ったのだった。


「『あの棟』の患者はそんなの気にしませんよ。少なくとも、今から紹介する患者はね」

「また別の棟に行くのですか?」

「ええ。あなたも聖バシリオに慣れてきたでしょうし、そろそろこの仕事の『本当に大変な部分』をお見せしようと思いまして」


 彼は不気味に口角を吊り上げていた。その笑みに喧嘩を売られたような気がして、私は挑戦的に睨み返した。


「わかりました。案内してください」



***


 処置室を出、廊下を進む。

 重症者用の隔離病棟は敷地の中央に位置し、中庭を分断するように腰を下ろしていた。

 一般病棟との境界となる鉄扉の前は、これまで幾度となく通ってきたが、所々浮いた錆びや黒い焼け跡のようなものが陰惨な雰囲気を纏っており、その威圧感に気圧されずにはいられない。ついにこの先へ足を踏み入れるのだと思うと、自然と肩に力が入った。


「じゃあ、開けますが……少し覚悟しておいてくださいね」


 ルカレッリ医師はそう前置きして扉に鍵を挿した。

 そこは私がこれまで感じてきた不快感を大幅に上塗りする、最低最悪の場所だった。

 扉が開かれた途端、蛇のように這い出してきた臭気。これを書いている今でも、鼻腔から剝がれない。埃臭さに混じるすえた臭いと脂の臭いは、明らかに人体に由来するものだった。


 思わず僧衣の袖で口を押えた私に、ルカレッリは言った。


「慣れるまで厳しいでしょう。そのままで大丈夫ですよ。ここの患者は気にしませんから」


 私はその発言に怒りを覚えた。臭いのせいで胃袋の中身がせり上がって来ていたが、常識と理性が私に腕を下させる。


 酷いのは臭いだけではなかった。直線の廊下の左右に扉が並んでいるが、突き当りの一つしか窓が無いために、そこはあまりに暗かった。視界の悪さを言い訳に、掃除もおざなりになっているらしい。天井には蜘蛛の巣が張り、床には塵や虫の死骸が積もっている。

 これでは入院している患者たちだって気持ち良く過ごせないだろう。そう私が言うと、またしてもルカレッリは笑い飛ばした。


「あなたはお優しいですね」

「そういうことではないでしょう。病院とは本来、どこよりも清潔であるべきです」

「それは普通の病院の場合ですよ。ここに巣食う病原体は、清潔さなんて関係ありませんから」

「衛生管理は精神の病にも重要だと聞きましたよ」

「ええ、おっしゃる通り。さすがはフラ・トマゾ、きちんと勉強しておられますね」


 それが嫌味のように聞こえたので、私はカチンときてしまった。彼に対して前々から感じていたことを、ついうっかり吐き出してしまう。


ドットーレお医者様、あなたは患者を軽んじすぎていませんか? 同じ人間として、患者にも敬意を持って接するべきだと思います」


 すると、ルカレッリは弁解するように手の平を見せてきた。


「やっ、やっ。そんなつもりはありませんよ。僕はただ事実を述べたまででして」

「何が事実ですか。単なる職務怠慢です。あなたが病棟の衛生管理を怠っていることは、修道院長に報告させていただきます」


 脅しのつもりだった。

 が、ルカレッリは。すまなそうに眉尻を下げつつ、ヘラヘラ笑って頭を掻いた。


「院長なら、既にご存知ですけどね」


「は?」と返す私に、彼は更に言葉を続ける。


「たまたま今が特に酷いだけですよ。吐いた物を体に塗りたくるのが日課の患者がいましてね。彼女さえ落ち着いてくれれば、今よりずっとマシになりますから……」


 それを聞いて、私は若干の負い目を感じた。精神病者が何らかの強迫観念によって奇行に走ることがあるというのは聞いていたし、そうしたことに理解があるつもりになっていたからだ。

 とは言え、私の欠点である負けず嫌いな性格のために、素直に引くこともできなかった。


「そういう事情があるとしても、他の患者のために必要な措置を講ずるべきでしょう? 掃除の頻度を増やすとか、その患者の部屋を離すとか」

「いやぁ、それは負担が大きすぎますし……それにね、何度も言ってるじゃないですか。この棟の患者は何にも気にしないんですって」

「そんな訳ないでしょう! 患者が不満を伝えられない状況にあるとしても――」

「不満にも思ってないはずですよ。お伝えしたでしょう、フラ・トマゾ。ここはもう手の施しようがない重症患者のための棟なんです。ここの患者たちはもう現実世界を見ていません。現実の一切を認識すらしていないんです」


 私は唖然として彼を見つめることしかできなかった。ルカレッリは困ったような微笑を浮かべたまま、私を隔離病棟の内部へと誘った。


「すぐにおわかりいただけると思いますよ。ここが本日ご紹介したい患者の病室です」

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