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【 五月二十七日 】

 自分でも信じられないことだが、イサベルの病状は劇的な回復を見せた。というのも、前日の約束通り病室を訪れた私が見たものは、昨日までとは打って変わって明るくなったイサベル・ロマーニの姿だったのだから。

 私は弾けんばかりの笑顔に迎えられた。彼女は青い双眸を眩しそうに細めている。


「こんにちは、修道士さま」

「こんにちは、イサベル……なんだか今日は体調が良さそうですね」

「ええ、とっても」


 それから軽く雑談をしたが、私は彼女のあまりの変貌ぶりに面喰らってしまった。昨日はあんなに怯え、泣いていたのに。不躾な質問だと承知しつつも、話題が途切れた折に訊ねてみずにはいられなかった。


「それにしても、見違えるようですね。いったい何があったんですか?」


 イサベルは仄かに頬を染め、歯を見せてはにかんだ。


「何か、と言われましても……ただ、なんだかとても気分がいいんです。憑き物が落ちたような」

「悪魔は去ったんですね。きっとあなたの祈りが通じたのでしょう」

「ああ、そうかもしれませんね」


 彼女の朗らかな笑みを見ていると、こちらまで嬉しくなってくるようだった。

 言われてみれば、確かに私は完治した精神病患者を見たことがない。彼女は「憑き物が落ちた」と表現したが、例えば悪性の腫瘍を取り除いて足の痛みが無くなるように、心の病を取り除くと、こんな風に人は変わるものなのかもしれない。むしろ、この快活な彼女こそ、本来のイサベルなのだろう。


 私は暇を告げる際に、持参した聖書を差し出したが、イサベルはきょとんとして目を瞬いていた。


「それでは、こちらはもう必要無いでしょうか」

「聖書?」

「ええ。今日お持ちすると約束しましたよね?」

「あっ、ああ、そうでした。ありがとうございます」


 次の面会の予定は決まっていないので、返却はいつでもいいと言っておいた。もし会う機会が無ければ、看護師にでも渡しておいてくれればいい、と。



【 五月三十一日 】


 今日は嬉しい知らせがあった。


 一日に何人も患者を見舞うと、さすがに疲労が拭いきれない。患者が私を――いや、祈りを必要としているのは喜ぶべきことなのだけれど、まだこの仕事に慣れていない私には、少々負担に感じてしまう。

 そんなことを考えていた折、ルカレッリが私を呼び留めた。


「フラ・トマゾ、お渡ししたい物があるのですが」


 彼が渡してくれたのは、先日私がイサベル・ロマーニに貸した聖書だった。


「実は彼女、昨日退院したんですよ」

「えっ、本当ですか?」

「ええ。気持ちも前向きになりましたし、病状も安定しましたからね」


 なんと喜ばしいことだろう! 彼女が悪夢に怯えていた時は、退院させることに不安を感じたが、明るさと自信を取り戻した今なら、それは良いニュースに違いない。

 しかし、私が祝いの言葉を述べる一方で、ルカレッリ医師は複雑な顔をしていた。


「何か心配なことでも?」

「ええ、まあ……」


 彼の煮え切らない返答に私は若干の苛立ちを覚えた。患者の意向を聞かず退院させると言ったかと思えば、いざ退院した時にはこんな顔。いったい何が不満だと言うのだろう。

 恥ずかしながら、私の不満は顔に出てしまったらしい。ルカレッリは眉尻を下げて弁解した。


「揺り戻しを心配しているんですよ」

「……揺り戻し?」


 聞き覚えのない言葉だった。一旦改善に向かった症状が、再び悪い状態に戻ってしまうことだそうだ。精神疾患の回復期に往々にして見られる現象らしい。


「イサベルは急激に回復したでしょう。ですから、同じように症状が急激にぶり返す可能性もあるという訳です」

「だったらどうして、彼女を退院させてしまったんです?」

「そりゃあ、僕だってもう少し様子を見ておきたかったですよ。でもねぇ、本人たっての希望だし、ご家族も早期退院を望んでいましたから……」


 先日聞いた治療費の話を思い出す。金銭的な事情もあるならば、無理に引き留めることもできないのだろう。不承不承納得する私に、ルカレッリは宥めるように言った。


「まあ、もともと自宅療養が可能な状態ではありましたからね。経過観察は当然ながら、何かあればすぐに受診するよう、本人にもご家族にも念を押してあります」


 すべてが杞憂に終わりますように。

 イサベルの明るい笑顔を思い返し、私は切に願った。



【 六月八日 】


 ただ、後悔するばかりだ。


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