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【 五月二十六日 】
私は再びイサベル・ロマーニの病室を訪れた。彼女が自ら私との面会を求めてくれたのだという。
彼女は私の顔を見るなり、安心と怯えの入り混じった顔で訴えた。
「嗚呼、修道士さま! 聞いてください。わたしはやはり何者かに狙われているんです!」
彼女は右手を私の鼻先に突き出した。人差し指の先に、真新しい包帯が巻かれている。
「お怪我を? どうされたんです?」
彼女の話はこうだ。
昨晩もいつものように戸締りを確認して床に就いた。夢は見たが悪夢というほどでもなく、目が覚めた時に虫の死骸を発見することもなかった。
ところが、安堵して寝がえりを打った彼女は、痛みに声を上げる。
「これが! 枕の下に……!」
イサベルが見せてくれたのは、どこにでもあるような縫い針であった。位置を直そうと枕の下に手を入れて、不運にも指を刺してしまったらしい。
「絶対にわたしではありません! 自分でこんなことをする訳がないじゃありませんか!」
そう言う彼女の目には、見る見るうちに涙が溜まっていった。
姿の見えぬ悪意への恐怖。信じてくれない医師たちへの失望。そうした色々なものが彼女の不安定な心を揺さぶっていたのだろう。私は彼女の隣に椅子を並べ、痩せた背を撫でて宥めすかせた。
「お医者様はなんと?」
「せ、先生は、何も言いませんでした。わた、わたし、絶対に誰かがわたしを傷つけようとしてるって、わたしを殺そうとしているって、そう訴えたんです。でも、先生は取り合ってくれませんでした! ただの事故だって!」
イサベルはハンカチに顔を埋めて泣き始めた。
私は何と声を掛けていいのかわからなかった。状況から見ても、専門家の知見を以ってしても、今度の件も彼女の自演であることは間違い無いのだろう。自分の知らないところで自分が自分を傷つけようとしている――怯え切った彼女にそんなことが理解できるはずもない。
ただ、憐れだった。私は彼女を責めることはおろか、これ以上傷つけたいとも思わなかった。これが精神の病というものなのだと。病の力を前に、患者はあまりにも無力なのだと、思い知っていた。
「修道士さま」
イサベルが私を振り返り、兎のように赤くなった目と鼻で問う。
「修道士さまは、わたしを信じてくださいますよね?」
「……ええ。もちろんです」
他に何と答えられただろう!
彼女を傷つけようとしている『何か』もとい『誰か』は確かに存在するのだから――病魔という恐ろしいものが、彼女の中に潜んでいる。
私の肯定を受け、イサベルは少しだけ安心した表情を浮かべた。その笑みに、望んでいた言葉を与えることができたのだ、と私も小さな達成感を味わう。
彼女は意を決したように再び口を開いた。
「修道士さま、わたし、気が付いたんです。わたしを傷つけようとしている者の正体に。わたしにあんな夢を見せるモノの正体に」
「なんですか?」
「――
私は言葉を失った。咄嗟に表情を取り繕ったので、イサベルには私が恐れ戦いたように見えただろう。彼女は満足そうに、そして熱心に頷いた。
「悪魔がわたしを乗っ取ろうとしているんです。間違いありません。昨日の夢がそれを物語っておりました」
「それは……どんな?」
彼女が語った夢の内容は、それまでの悪夢に比べれば遥かに穏やかなものだった――不気味なことに違いは無いが。
イサベルはこの病室で自分自身と向き合っていた。彼女が知る自身の姿と寸分違わぬイサベル・ロマーにが、目の前に座っている。それはまるで鏡を見ているようだったが、二人を隔てる物は何も無かった。
無言で見つめ合ううちに、もう一人のイサベルが変貌を始めた。彼女の顔はインクに浸したように黒く染まっていき、やがて真っ黒になった顔の中央に、鮮烈な赤が口を開く。
『わたしは、■■■だ』
不自然なほど強調された白目に浮かぶ、漆黒の瞳。その目に射抜かれた瞬間、イサベルは自分の指先が黒く変色するのを見た。
そして、目を覚ましたという。
「あ、あのまま目を覚まさなかったら、きっとわたしは……っ」
恐ろしい想像をして怯えるイサベルに、私は辛抱強く言った。
「大丈夫、あなたはちゃんと目を覚ましたではありませんか」
「でも、でもわたし、怖くて……アレに乗っ取られたらどうなるのでしょう? あの夢の通りに、自分や家族をこの手に掛けたり――」
「恐れないで、イサベル。気をしっかり持ちなさい! 悪魔は弱き心につけ込むのです。あなたがしっかり自分を持ちさえすれば、誰もあなたに手を出すことはできませんよ」
私は極めて強い口調で言い聞かせた。彼女の耳元で囁き掛ける不安の声を掻き消すように。イサベルは縋るように私を見上げ、両手をきつく握り合わせた。
「気を、しっかり……」
「そうです。悪魔につけ入る隙を与えないように。恐れてはなりません」
「どうすれば、自分を強く持てるでしょうか。怖くて怖くて、そのことばかり考えてしまうというのに」
「祈りなさい――」
反射的にそう口にしながら、私はふと枕元に置かれた本に目を留めた。初めて会った時に彼女が読んでいた本だ。
「イサベル、あなたは読書がお好きでしたね?」
「は、はい。とても」
「では、起きている間は聖書を読み、頭から悪魔を締め出してしまいなさい。そして、祈りなさい。主があなたを護ってくださるように」
イサベルはまだ不安そうだったが、少なくとも先程よりは落ち着きを取り戻していた。青い目に微かな意志が蘇る。
私たちは共に祈りを捧げ、それから部屋を後にした。また明日面会に来ること、その時に美しい挿絵が施された聖書を持ってくる約束をした。
なお、私の対応について、ルカレッリは特に褒めも咎めもしなかった。素っ気無く肩を竦めただけだ。
「信仰が人を救うこともありますからね。精神という不可思議な領分において、医学はまだ完全とは言えません。悪魔だと信じることで彼女の気持ちが軽くなるのなら、それに越したことはありませんよ」
どことなくその言葉に棘を感じたのは、私の思い過ごしだろうか。
「ドットーレ、イサベルの病気は本当に流産がきっかけなのでしょうか? 本当は誰かに脅されたとか……そうした怖い体験があったのではありませんか?」
「ありませんね。旦那が冷たくなったのも、病気を発症した後からですし」
「では、なぜ?」
「関係があるかはわかりませんが――」
彼は多少言葉を渋りながら、声を潜めるようにして言った。
「自分で自分を責めているのでしょうね。カウンセリングの際に、打ち明けてくれたことがあるのです。赤ん坊の死について」
私はサッと蒼褪めた。
「まさか、彼女自身が手を掛けたなんてことは――」
「いえいえ、それはありえませんよ。ですが、彼女はホッとしてしまったらしいのです。産婆が差し出した赤ん坊の遺体を見て」
「……なぜ?」
「赤ん坊に身体的な障害があったからです」
私は言葉を失った。怒りよりも前に、同情に似たものが込み上げてくる。決して許されるべきことではない――それでも、それと同じくらい、彼女を責めることはできないような気がしていた。
長い沈黙が明け。
私は口の中に苦い味を噛み締めながら、言った。
「善良な女なのでしょうね、彼女は」
目を伏せたルカレッリの横顔は、きっと私と同じことを思っていた。
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