1-2
***
イサベルは頻繁に酷い悪夢に魘されるそうだ。
夢の中の彼女は結婚も入院していない。少女時代に戻り、両親や姉妹たちと平穏な日常を過ごしているという。それは長らく家族から引き離されている彼女にとって、大きな慰めになっていた。
「そこではわたしは、こんなに惨めな人間じゃないんです。明るく快活で、老いた両親のよき助言者でありました。犬を連れて妹たちと走り回ったり、庭の木に登ったりと、現実のわたしでは考えられないくらい活動的なのです」
ところが、現実との乖離は楽しい事柄だけではない。夢の中の時間が進むにつれ、その表情を一転させる。悪夢は信じられないほどの残酷さで以って彼女に牙を剥くのだ。
「お母さんがわたしの部屋を訪ねて来るんです。あ、赤ん坊を、腕に抱いて……」
イサベルの母は赤ん坊を抱くよう強要する。イサベルはそれを拒むけれど、母親は容赦なく迫り続ける。
ついには、イサベルは赤ん坊を母親の手から払い落とす。落下したおくるみはべしゃりと水っぽい音を立てて破裂し、血溜まりが足元に広がった。
「酷い、光景でした……わたしは跪いて赤ん坊の成れ果てに許しを請います。ごめんなさい、ごめんなさいと呟きながら、立ち上がったわたしの手には――」
包丁が、握られている。
イサベルは目の前の母親に血濡れた刃を突き立てる。老いた母親は苦痛の叫びを上げながら、彼女に「どうして」と問う。それをイサベルは笑って聞き流し、弄ぶように切り刻む。母が終われば、次は父を。姉を。妹たちを。
そして、最後には。
「自分の指を、一本ずつ切り落として……それから耳を、鼻を、乳房を削ぎ落して。痛いんです……! 本当に、痛くて痛くて、こんなことやめたくて堪らないのに、わたしは笑いながら、自分を切り刻むのをやめません!」
その一連の流れを、イサベルは自身の目からではなく、何者か第三者の目を通して観察している。子に縋り、家族を殺し、自身を切り刻むその姿を。
悪夢は彼女の血と哄笑に塗れて終わる。そこには恐怖と共に、言いようもない悦びがあった。
「それだけではないんです」
思い出すだけでも辛いのだろう。苦しいのだろう。彼女の声は震え、まるで物陰に潜む怪物を警戒するように、絶え間無く周囲を窺っている。
「そんな悪夢を見た朝は、決まって沢山の虫が、し、死んでいるんです。枕元に散らばって。蛾や、黄金虫や、蜻蛉なんかが……足をもがれて……」
目を覚ましたイサベルは、悲鳴を上げて飛び起きる。怯えた手で虫の死骸を払い落とし、この虫たちはどこから入ってきたのだろうと視線を巡らせる。
答えはすぐに得られた。窓が細く開いていて、桟には火の消えた蝋燭が置きっぱなしになっていた。
「わたし、そんなところに蠟燭を置いたりしていません! 窓だって開けていないのに! 寝る前にちゃんと確認したんですから。しっかり鍵を掛けて、蝋燭だって戸棚にしまって――」
それなのに。
悪夢を見た後は決まって、窓と蠟燭がそのようになっているのだという。
イサベルは看護師に訴えた。誰かが寝ている間に窓を開け、部屋の物を動かしているのだと。彼女の枕元に虫の死骸を撒き散らすのだと。だが、看護師は取り合わない。窓は内側からしか解錠できず、窓にも扉にも、無理矢理抉じ開けた形跡は見られないからだ。
それこそがイサベルがここに入院することになった症状なのだと、私は後に医師から聞いた。つまり、すべては彼女の自演に過ぎず、半ば夢遊病的にそうした奇行を繰り返しているが、そのことを記憶から消してしまっているのだ、と。
当然ながら、彼女はそれに納得しなかった。平素の彼女は、そもそも虫に触ることすら恐ろしいというのに。
そうして頑なに侵入者の存在を主張し続けていた彼女は、ある日決定的な証拠を発見してしまう。虫を虐殺していたのは自分だ、という証拠を。
その日、またしても大量の死骸を発見した彼女は、悲鳴を上げた。慎ましく、手で口元を覆って。とにかく気を落ち着かせようと、他に変わったことはないかと確認しようとした彼女は、ゆっくりと手を下ろす。そこで気が付いた。
爪の間に黒いものが挟まっている――虫の足だった。
「本当に、わたしだった……! わたしが虫たちを殺していたんです! 夢の中では家族を殺し、自分を殺し、現実では虫を集めて殺している!」
イサベルは身を乗り出し、両手で私の腕を強く掴んだ。白い指先には汚れの一つも無い。
「わたしの中には残虐な心が眠っているに違いありません。このまま家族のもとへ戻ったらどうなるか……大切な家族を手に掛けてしまうかもしれない! わたしは、もう、自分で自分が信じられないのです……」
その後、イサベルは軽い錯乱状態に陥ってしまった。私は彼女の手を摩って慰めながら、看護師が駆け付けるのを待った。薬湯を飲むと落ち着きを取り戻したが、今日の面会はこれで終了ということになった。
***
徒に彼女の不安を刺激し、何もしてやることができなかったと自分を責める私に対し、ルカレッリ医師は言った。
「そう気に病むことはありませんよ。彼女にとっては『不安を誰かに聞いてもらう』ことこそが慰めになるのですから」
「ですが……
「もちろん、すぐにではありませんよ。服薬を続け、彼女自身が病状を前向きに捉える必要はあります。しかし、入院が必要な程度ではなくなったことは確かです。寛解とは言えなくとも、自宅でも十分治療を継続できるまでに改善されています」
「彼女に猟奇的な兆候が見られるとしても?」
「
ルカレッリは忍耐強くそう言ったが、私は納得しきれない様子が顔に出てしまっていたらしく、彼は咳払いをして付け加えた。
「金銭的な問題もあります」
「と、言うと?」
「入院するには金が掛かる。ロマーニ家のご両親だって、いつまでも娘を病院に入れておけるほど裕福という訳ではないんです」
そんな事情を持ち出されてしまえば、もう私に言えることなど無かった。
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