魔女

まなぶ

魔女

〈二月五日、月曜日〉

 寝ぼけ眼で見てもわかるほどに、窓から見える景色は一面、美しい白に染められていた。

 どうやら昨晩の雪は一晩中降り続き、積み重なってしまったらしい。家から少し離れた高校に通う僕は、電車が運休するかどうかを気にしながら、一日の授業を確認し、身支度を始めていた。

「聡夜ー。起きてるー? ご飯できたよー」

「はーい」

母に呼ばれて一階に降りた僕は、白米に目玉焼き、インスタントの味噌汁とヨーグルトといった、いつも通りの朝食を食べ、スマホで電車の運行状況を確認した。残念ながら、今のところ、運休や遅延の情報は出ていない。学校から母のもとへ届いたメールにも「本日は、通常通り授業を行います。しかし、自転車や電車で遠くから通学される生徒につきましては、十分な身の安全を確保したうえで通学していだたき、それが難しい場合は自宅待機という形で対応致します。」という内容が書かれていた。

 「帰る時間に電車の動きが怪しかったら迎えに行くから」と母から送り出された僕は、いつも通りの時間、いつも通りの車両、いつも通りの座席に座って学校へ向かった。電車に乗っている人もいつも通りで、変わったところと言えば、道路が雪のせいで混んでいるくらいだった。今、同じ電車に乗っている人や、渋滞に巻き込まれている人の大抵は、僕と同じように「休みになればいいのに」「なんでこんな時に家から出なきゃいけないんだよ」と思っていることだろう。

 教室は、いつもより若干人が少ないようだった。電車が動かず休まざるを得ない人や、まだ学校が休校になることを諦めきれていない人がいるのだろう。今頃、徒歩通学の人間は電車通学の人間を羨んでいるのだろうなと思っていると、同じクラスのバスケ部の友達である灰谷が話しかけてきた。

「高木ー。電車大丈夫だったん?」

「おお。起きてからずっと、止まってくれんかなって気にしてたんだけどな」

「残念だったな。ようこそ地獄の月曜日へ」

彼は月曜日の番人にでもなったつもりなのだろうか。たしかに、月曜日の基本の時間割は怒涛の重要教科詰めで、気を抜ける教科はどこにもない。実際のところは、昼休み明けの現代文は、みんなが実質休みにしている時間なのだが。彼の番人気取りな言葉を聞き流して、僕は彼に聞いた。

「そんなことよりお前、今日はちゃんと課題やってきただろうな」

「いやあ。さすが高木様ですねえ。私の言いたいことを見抜いてらっしゃる」

「またかよー。写すのはいいけど、バレないようにってのと、質問されるときのことちゃんと考えとけよー」

「ええ。ええ。もちろんですって」

先ほどの番人のような威勢はどこへ行ったのか。数冊のノートを手渡すと、彼は足早に自分の席へと戻っていった。

 その後、だんだんとクラスの中の人口密度は増していき、結局いつもと大差ないほどの風景になった。休んでいるのは四、五人だろうか。僕は左斜め前の席にいるはずの女子生徒がいないことに感謝した。それは、その女子生徒が嫌いだからというわけではない。僕の席から見て、その女子生徒の席のさらに向こう、そこには、地毛でありながら真っ黒ではない色をした短めの髪、誰にでも同じ輝きを見せる丸い瞳、普段は品の良さを演出しながら、笑うとその歯を綺麗に見せる口、そして、明るく透き通った白い肌をもつ女子が座っている。今日は、いない女子生徒のおかげで彼女がよく見える。月曜日であることに加え、この大雪、正真正銘今日は地獄だと思っていたが、渋りながらも地獄へ向かって来てよかった。ギリギリのところで天国へのぼる道を、神は残してくれていたようだ。これも日々の行いのおかげかとも思ったが、それではあの地獄の番人に感謝することにつながってしまう。それはやめておこう。

 そのとき、ふと彼女と目が合った。いけない。見つめ過ぎたか。

しかし、彼女はいつもの笑顔を一瞬こちらに見せ、すぐに前を向き直した。

 僕は懲りずに、しばらく彼女の方を見続けていた。ただただ彼女を見ていたいという願望と、また彼女がこちらを向いてくれるのではないかという淡い期待以外、僕には何もなかった。

 この後、何度か目が合うことがあり、その度に彼女は笑顔を見せてくれた。僕の方はどんな反応をしていたのか覚えていないが、僕はとても満足し、幸せな気持ちで一日を終えた。

 窓の外では、雪が降り続いていた。



〈二月六日、火曜日〉

 昨日の帰り道にはまだ残っていた雪も少しは解け、いくらか歩きやすくなった。今日はもう電車が止まるようなことは期待できないだろう。

 昨日はいなかった女子生徒も、今日は来ているようだった。僕は少し落胆したが、さすがにそれではその女子生徒に失礼だとも思った。

 僕は昨日のことが忘れられず、ことあるごとに向こう側が見えないか頭を揺らしていたが、思うように彼女が見えることは少なかった。そうしていると、後ろの席の田畑が話しかけてきた。

「お前頭揺らしすぎ。気が散るし前見にくいんだけど。高い木はじっとしててくれよ」

「あ、ごめん。いや、お前の方が背高いし、最後のは余計だろ」

 どこからか、こちらを笑っている声が聞こえた。



〈二月九日、金曜日〉

 四日前の雪はもうどこにもなく、空は柔らかにその青を広げている。遠くから緩やかに流れてくる空気は、梅の花の香りを運んでいるようだった。

 八時二十分、朝礼の十分前だが、いつもならそろそろ来ている彼女が今日は来ない。

 朝礼が終わり、一限が始まる時刻になっても彼女は現れなかった。

 この日は一日中、何をするにも身が入らなかった。柔らかな青空はどこまでも広がり、僕はその向こうのどこか遠くを眺めていた。



〈二月十一日、日曜日〉

「休憩ー」

「「あい」」

 この日は一日、近隣の高校を招いて練習試合だった。十二時を過ぎ、二試合目を終えたとき、僕のすぐ横で灰谷が大の字に倒れこんだ。

「あー、疲れたー。これあと何試合すんのー」

「監督とマネたちが十七時くらいまでどうのこうのって話してたぞ」

「えー。じゃあまだ三、四試合はやんのかー」

「そんなことより、腹減ったから着替えて飯食おうぜ」

「そうだなー。おれも腹減ってきたわ。善は急げだ!」

彼は部室に向かって走り出した。疲れているのではなかったのか。彼の安定しない言動にはいつも振り回される。そこが彼のいいところでもあるのだと理解はしているが、僕には走る余力は残されていない。

 部室に向かって歩き出したその時だった。どこからか楽器の音色が聞こえてくることに気づいた。

「ちょっと先行ってて。トイレ行ってくる」

「あいよー」

僕はその音の主を探した。そこには、銀色の楽器を持って音を奏でる彼女の後ろ姿があった。僕の耳に届いてくるこの音色は彼女から発せられており、彼女は、その小さな手で軽快に音楽を奏でていた。気づけば、僕はまた彼女を見つめていた。

 するとまた突然、彼女がこちらを向いた。こちらの視線に気づいたのだろうか。僕が戸惑っていると、彼女はいつもの笑顔を見せた。そしてまたすぐに元の方を向き直し、手に持った銀色を構えた。僕はほっとして、彼女の後ろ姿を見ていた。

 しばらくして、灰谷と別れてから五分以上経っていることに気づき、急いで部室に向かった。弁当を食べ、午後の練習試合を終え、帰るのは十七時を過ぎた頃だった。

 練習中は全く気づかなかったが、体育館を出ると雪が降り始めていた。手元の天気予報は、この雪が明日の夜まで降り続くことを伝えていた。



〈二月十二日、月曜日〉

 今週の月曜日も、外の世界は一面真っ白に染められてしまった。雪に加えて風も強く吹きつけていたため、先週と違って電車は一部運休や遅延をしていたが、それでも僕は無理に学校へ行った。

 学校へ行くと、先週同様、左斜め前の女子生徒は居らず、例の彼女がよく見えた。僕はことあるごとに彼女を眺めていたが、その得も言われぬ美しさに、僕はすべてを奪われるかとまで思った。いや、もはや僕は彼女を眺めさせられていて、すべてを奪われることを望んでいたのかもしれない。とにかく、僕は彼女に夢中だった。

 しかし、その日、僕と彼女が目を合わせることは一度もなかった。どれだけ彼女を見つめても、彼女がこちらを振り返ることはなく、あの笑顔を正面から捕らえることは全くできなかった。授業中わざと彼女の方向にペンを落としてみたり、積極的に発言してクラス全員の注目を集めてみたり、彼女の席の近くにいる普段は特別仲良くもしていない友達に話しかけに行ったり、どうにかして彼女と目を合わせることができないか策を尽くしたが、それらはすべて徒労に終わった。

 それでも、僕は彼女に失望したり疑念を抱いたりするようなことは全くなく、むしろ、どこか納得し、満足していた。



〈二月十四日、水曜日〉

 今日も雪が降っている。「ホワイトクリスマス」という言葉はよく聞くが、「ホワイトバレンタイン」という言葉は聞いたことがない。ただ、敢えて言うと、どうやら今年は「ホワイトバレンタイン」になりそうだ。

 僕はこの日のことを特別好きでも嫌いでもない。ただ、今年はどこかよそよそしい気持ちを抱えながら、教室へ向かった。

 クラスでは、想いを寄せる異性へチョコレートを手渡す人がいたり、その瞬間を傍から見てざわざわしている人や、我関せずと日常を過ごしている人もいたりする。例の彼女は、いつも通り僕の左斜め二つ前の席に座っていた。誰かに何かを渡しに行かないのか、僕は気になって様子を見ていたが、彼女は友達と他愛もない話をして、僕にはその後ろ姿を見せていた。僕は安堵しながら、ゆっくりと降る雪に思いを馳せていた。

 その後、いつも通りに一日は進行した。ただし、今日は彼女の方を見つめることはしなかった。見たくなくて見なかったのか、見たくても見られなかったのか、全くの無意識に見なかったのか、理由はよくわからない。彼女の姿や顔を見ることも、彼女の声を聞くことも、無論、彼女と話をすることもなかった。

 部活を終え帰ろうとすると、灰谷が嬉々として話しかけてきた。

「おい! 聞いてくれよ! おれ、女バスの子から本命貰っちゃったんだけど!」

「まじかよ。誰なんだよその子って」

「それはちょっと秘密にしようかなー。まだ付き合い始めたわけじゃないし」

「なんだよー。調子いいやつだなー。その情報だけ伝えて、詳細は何も教えてくれないとか、さすがにムカつくんだけど」

「まあまあ、いいじゃないか。何か進展があったら、その時にまた教えるからさ。そんなお前の方はどうだったんだよ」

「特に何もない」

「そうかー。残念だったな!」

こいつは本気で僕を怒らせたいのか。こいつのことを好きになった女子の気が知れない。

「そういや、高木って気になる子とかいるの?」

僕は真っ先に彼女のことが浮かんだ。だが、その名前を挙げることはしなかった。

「いや、おらんな。なんかそういうことが気にもならんって感じ」

「そうなんか。青春しないのかい、青春」

「うん。今はいいかな。気になる人が現れたらって感じで」

「そうかー。じゃあ、おれ帰るわ」

「おお。また明日、おつかれー」

「おつかれー」

灰谷が部室を出てから少しして、僕も部室を出た。

 外に出ると、まだ雪が降り積もっていた。校門のすぐ近くの信号機はその庇のおかげで分かりやすく光を放っているが、その下の横断報道は、白黒を曖昧にしていた。

 信号が青になるのを待っていると、後ろから誰かを呼ぶ声が聞こえた。

「おーい」

それは、よく知る声だったが、自分に向けられているものだとは気づかず、僕は反応に遅れた。振り返ると、そこにはあの美しい彼女がいた。

「ねえ、高木くん?」

「え? おれ?」

「うん。そうだよ」

「どうしたの? 普段喋らないのに急に話しかけられてビックリなんだけど」

「あれ、ビックリさせちゃった? ごめんね。たまたま見かけて、どうしても今話をしたくなっちゃってさ」

僕の動悸はこれ以上ないほどに激しくなっていた。

「な、なんですか」

「高木くん、私のことよく見てくれてるよね。私と仲良くしたいのかなと思って」

「ああ。やっぱりバレてるよね。ごめんね、なんかかわいいなーと思って見ちゃうんだよね」

僕はあまりにも正直に答えていた。まさに考えるよりも先に手や口が動くといった具合で、とっさに言葉を取り繕う余裕など持ち合わせていなかった。

「え! うれしい! ありがとね!」

よかった。嫌な思いはさせていないようだ。調子に乗った僕は自分から話しかけていた。

「なんで目が合ったときにいつも笑ってくれるの?」

「えー。だって、目が合ったのに、そのまま目を逸らしたら気まずいじゃん?」

それはたしかにそうだ。だが、僕が聞きたいのはそんなことではない。

「それはそうだけど、嫌じゃないの? 男からジロジロ見られて」

「嫌じゃないよ! だから今こうして声をかけたんでしょ!」

「それもそうだけど、普通、友達でもない人間にいつもジロジロ見られたら、怖いし、気持ち悪いもんじゃないの?」

「んー。そういうこともあると思うけど、高木くんにはそんなこと思ってないよ」

僕は焦れったくなって遂に聞いた。

「じゃあ聞くけど、おれは君のことかわいいなって思って見てるんだけど、君はおれのことをどう思ってるのさ」

「え? んー。どうって。よく見てくれてるなー。嬉しいなー。って思ってるだけなんだけどな」

「ほんとにそれだけ? あんまりその気持ちが理解できないんだけど」

「うん。ほんとにそれだけだよ。気を悪くしちゃったならごめんね」

「いやいや、全然そんなことないよ。おれの方こそごめんね。なんか責めてるみたいになっちゃって」

「ううん。大丈夫だよ。ほんとに、いつも見てくれてて嬉しいから、高木くんが仲良くなりたいって思ってくれてるなら、仲良くしたいなって思ったんだよ!」

「そうか、ありがとう。じゃあ、これからは正式に友達ってことでいいのかな?」

「うん! これから私たち友達ね!」

その後、彼女が続けて言った。

「あ! でも、今日は私のこと見てなかったよね。私、気づいてたよ。」

「え。そうだったっけ。あんまり意識してなかったな。」

「ほんとにー? 私、なんかちょっと寂しかったんだよー」

「寂しかったって、そんな。今日までまともに喋ったこともなかったのに?」

「うん。寂しかったよ」

こんなに恐ろしいことを言う彼女のその表情は、幼女のような曇りのないあどけなさを表に纏い、妖女のような底知れないあやしさをその裏に隠していた。だが、このとき僕は純粋に嬉しかった。まるで彼女と僕が特別な関係にでもなったかのように思い喜び、彼女のこと以外何も考えられなくなっていた。

「それじゃ、これからもよろしくね! 明日からはまたちゃんと私のことを見ててくれると嬉しいな!」

「うん、よろしくね! じゃあ、気をつけて帰ってね」

「ありがと! それじゃ、また明日ね!」


 今になって思う。僕はあまりにも恐ろしい魔女と悪魔の契約を交わしてしまったのだと。そして、この悪魔の契約から逃れることはできないのだと。

 辺りは見渡す限り白く染められ、静まり返っていく夜に雪はいつまでも降り続いていた。

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魔女 まなぶ @netanderu-ta-rujin

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