ライブ喫茶ダンデ・ライオン
さてさて、私たち二人は、このまま駅方面へ、川に沿って歩いて行く。このまま真っ直ぐ行って、野球スタジアムの横を通り過ぎ、駅の横を通り過ぎ、その先を歩いたところにあるエリア、
そんな白鳥の街にある、
「ここだよ」
「喫茶店?」
お店の名前は、『ライブ喫茶ダンデ・ライオン』。私のお兄ちゃんが店長をやっている、食も音楽もダブルで楽しめる
今は絶頂のお昼時。雨の多い季節だが、本日は貴重な晴れの日だった。じめじめと
さっちゃんを見ると、また不穏な顔に戻っていた。
「どうしたの、さっちゃん?」
「……喫茶店ってさ、スカしたおっちゃんがタバコふかしてるところでしょ?」
「いつの時代の話かな? 大丈夫、このお店は一切禁煙だし、お酒も全部ノンアル。未成年と清らか大人に優しいところさっ!」
そう言って私は、お店のドアを開けた。ちりーんとベルが鳴った。そこには地下に
「地下室?」
「そう。ライブハウスだからね〜」
階段を下った先、
私はドアを開けて、さっちゃんと一緒に中に入った。
ちりーん。
そこは、未知の異世界だった。まるで外国にいるような、これまでに見たことのない光景 ——。
店内に入ったさっちゃんは、あっと驚いていた。中は、一言でいうと、ライブハウスと喫茶店が
目の前にどーんと飛び込んでくるライブステージ。照明やら、音響の機材やらがきっちりと揃っている。
ステージを取り巻く、アンティーク調のインテリア。飲食を楽しみながらライブを
これは、
昼はただの喫茶店。地下で入りづらいのか、人の数は少ない。落ち着いて食べるにはちょうどいい。
入り口から入って右側に、カウンター
私はお兄ちゃんに声をかけた。
「お兄ちゃーん、来たよー」
この喫茶のマスターは、いかにも「喫茶のマスター」って感じの格好をしていた。その割には、だいぶ若い顔をしていた。
穏やかな顔をしていた。れいらんを見てからは、いっそう笑みが増した。
「いらっしゃい、
「お兄ちゃん、この子、運命的に神社で出会った、私のお友達だよ! さっちゃんていうの」
お友達……。
それからマスターは、さちを見てにっこり笑った。
「いらっしゃい。ようこそ、ライブ喫茶へ」
さちは、思わずれいらんの後ろに隠れた。ああいう男は危険だ。さちはだまされんぞ。そんな念をあの男に発信する。
するとれいらんは、背を低くして、さちのほっぺを両手でつぶした。その目はじーっとさちを
「ちょっと、人のお兄ちゃんに何て目線向けてんの。まーた
そう言うれいらんの声は、ずんと低くて、重かった。
れいらんもれいらんで、危ないと思った。何の疑いもなく人を信じていては、いつかだまされて、絶望に
それから、れいらんとさちは、マスターの手前の高いテーブルとイスの席に座った。
「何食べる?」
れいらんは、そう言って、さちにお店のメニュー表を見せた。
スパゲッティにオムライスにカレーライス、どれもこれも、気軽に食べることができない
これのどれかが食べれんのか。なんにしよう。とっても
「さっちゃん、大丈夫?」
どうしょう……なんにしよう……。
緊張しすぎて、手が震える。
「そんな、緊張しなくていいよ」
迷うけど、ずっと迷ってても仕方ない。
「……お……おむらいす……」
声も震えて、うまく言えなかった。
「私は、バナナスムージーとバナナケーキ」
「ん、了解」
おむらいす……。
「お待たせしました。バナナケーキとオムライス」
さちの目の前に現れたのは、赤いソースがかけられた、ふてぶてとした黄金。目も当てられないくらいに
れいらんは、先に届いたバナナジュースを飲んでいた。
手を合わせて「いたあきます」をし、スプーンを持って、おむらいすを一口に切ってすくう。この立派な黄金を
そして、一口。口に入れた。
特に言葉は出なかった。美味しいのかどうかも分からなかった。
でも——でも……もう一口、一口、一口、一口、一口、一口……。
いつの間にか、おむらいすはなくなっていた。
「どう? さっちゃん。 お兄ちゃんがレシピを
「……れいらん」
「ん?」
「さちをだまそうしてる?」
「どうしてそう思うの?」
「だって、優しくしてくれん人って、みんなだまそうすん人たちやから」
「私たちをどこぞの貧乏人どもと一緒にしないでよね」
「さちのお母ちゃん、そうやんて男にいっぱいだまされた」
さちは、マスターもいる前で、れいらんにいっぱい話した。
まずは、さちを産んだ時のお父ちゃんのことから。さちのお父ちゃんは、最低だった。お母ちゃんは、お父ちゃんにいっぱい尽くした。なのに感謝するどころか、ちょっとのことでもすぐに怒った。
お母ちゃんは、困って困って、お父ちゃんがいない時によく泣いていた。
ボロボロになったお母ちゃんは、お父ちゃんと離婚して、さちを連れて、遠いところへ引っ越した。さちは六歳の時だった。
お母ちゃんが言うには、初めて出会った時は良い人だったらしい。さちはウソだと思った。
それからは、結婚はしなかったけど、三人の男に出会った。
一人目は、酒場で出会ったという、高級なスーツに、高級な時計、高級な車、とにかく高級なものが好きなオシャレな人だった。お母ちゃんにも、さちにも優しくて、良い人だと思った。今思えば、甘い言葉を吐いてばかりの浮ついた男だった。
ある日、その男と男の妻だと名乗る女がうちにやってきて、女はお母ちゃんを襲った。さちはお母ちゃんを守ろうと止めに入ったけど、問答無用で突き飛ばされた。
その日のうちに引っ越した。
二人目は、ベースという低い音が出るギターを弾く男だった。演奏の腕はスゴかった。前の男ほど気取ってはいなかった。ただ音楽に真っ直ぐだった。お母ちゃんにもさちにも普通に優しかった。でも、さちは疑った。けれど、お母ちゃんは男に心を寄せていた。
音楽をしていくには、お金がかかって金欠だと、あらゆる出費をお母ちゃんのお金で払った。お母ちゃんからたくさんお金を借りて、全く返さなかった。
家のお金がなくなって、残るはさちの教育費だけになった時に、お母ちゃんは男に「もうお金はない」と言った。そしたら男は、愛想を尽かして消えて行った。
そこからまたお金を貯めて行って、ある程度余裕になった時。急にお母ちゃんの格好がきれいになった。それまではゆったりした服を着ていたのが、高級なホテルやレストランに行く人か着るような、大人っぽい服装になっていた。口紅を塗ったのか、唇も赤くなっていた。
お母ちゃんがそういう大人な格好をするのは、夜、さちが寝る前だ。うきうきした様子で、出かける準備をしていた。
そんなお母ちゃんを見て、さちは思った。また男ができたのか、と。
お母ちゃんは、男に心酔すると、歯止めが効かない。本当にヤバい状況になるまで、止まらない。
そして、ある日、お母ちゃんの体調が悪くなった。それから、何日も病院に通って、さちに伝えられたのが「子どもができた」。前から嫌な予感はしていたし、覚悟もしていたけれど、衝撃の知らせだった。
お母ちゃんは、さちを抱きしめて言った。
「幸巴、馬鹿なお母ちゃんでごめんね。急なことでびっくりするかもしれないけど、産んで大人になるまでちゃんと育てるって、決めたの。幸巴には、またお手数をかけるけど、お願いね」
これを言ったお母ちゃんは、一切泣いていなかった。強い覚悟が伝わってきた。
こうなってしまった以上、なんを恨もうとしかたない。なんよりも、さちは、大好きなお母ちゃんの味方でい続けたかった。さちまで敵になっちゃったら、お母ちゃんが可哀想すぎる。
「大丈夫よ、お母ちゃん。さちはずっと、お母ちゃんの味方やよ」
そう言うと、お母ちゃんは「ありがとう」と言った。
そして、何か月が過ぎて、妹、
「梅巴が産まれから、お母ちゃん、平日も土日も、朝から晩まで働きっぱなしで、全然家におらんの。だからさちが、梅巴のお世話してんの」
そろそろ帰らなきゃ、梅巴が待ってる。
「ごちそうさんでした」をして、この喫茶から出る。れいらんがおごるん言うてたし、そのお言葉に甘える。
「あ、待って、さっちゃん!」
さちには贅沢すぎるひとときだった。あのオムライス、梅巴にも食べさせてやりたいな。卵買って、作ってみんかな。
「さっちゃん!!」
振り返ると、れいらんがいた。
れいらんは、さちの手を取って、ぐうと引っ張った。引かれるままに倒れるさち。れいらんの大きな体に受け止められた。そしてさちは、ぎゅうと抱きしめられていた。
さちを抱きしめるれいらんは、わんわん泣いていた。
そういえば、他人にうちのことをこうまで詳しく話したのは、これが初めてだ。
他人に抱きしめられて、ここまで泣かれるのも初めてだ
「さっちゃん、私はずっと、さっちゃんの味方でいるから! 何があっても、絶対に!!」
れいらんは、さちじゃないのに。さちとは全然違う家に生まれて、さちが贅沢だと思う料理も、れいらんは当たり前に食べていんやろう。さちの話やって、ピンと来んやろうと思っていた。
こうも泣いてくれるんやね。さちの目も、ちいっとにじんだ。
しばらく泣いて、そののち離した。
「さっちゃん、絶対に大富豪になろ。目指せ年収一億!」
「そんなん、なれんの?」
「なれる! この世に不可能なんて言葉はないんだから!」
れいらん、やる気マンマンだ。
「れいらんは、お金持ちなのに」
「お金持ちなのは、私じゃなくてパパだから。いつまでも親のスネかじってるわけにはいかないじゃん。自分たちの力でやるんだよ。私とさっちゃんの二人で!」
「二人で……ありがと、れいらん。……よろしくね」
去り行くさっちゃんに、私は「気をつけてね」と手を振った。
衝撃を受けた。あの小さな体に余りすぎる、壮絶なバックグラウンドを持っていた。アニメや漫画、ドラマぐらいでしか見たことがなかった、本当に貧しい家庭環境で育った子。
私がすぐ身近にあるものだと思っていたオムライスも、あの子にとっては、手が震えるほどの贅沢品だった。私とさっちゃんでは、住んでいる世界がまるでちがった。
私は彼女のために、何か力になりたい。
そんなことを思っている私の頭の上に、ぽんと大きな何かが乗った。横を見ると、いつの間にか来ていたお兄ちゃんが、頭を撫でてくれていた。
背丈はお兄ちゃんとそこまで差がないけれど、心はうんとコドモだ。
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