黒幕
――遡ること、五分前。
八薙黎一は、部室棟の裏手にある畑にいた。
制服姿で畑に屈みこんでいるあたり、周囲から見れば立派な不審者だが、そこはご愛敬だ。
「なんなんだよアンタらッ! 放せよっ……」
「すいません、ほんとすいませんしたっ! もうしませんからっ……」
部室棟の建屋の向こうから、田所たちの声がする。
幸いフェンスの手前には乗り越え防止用なのか、学校の敷地側に大きな植え込みがあった。少し身を屈めるだけで、敷地の中からはそうそう見つからない。
「おとなしくせえっ!」
「謝って済むなら警察要らないんじゃボケェ!」
やたらドスの利いた声は、明らかに教員のものではない。
まあ、敢えて気にする必要もないだろう。
響く声や場の雰囲気からして、最悪の結末は回避できたらしい。
(終わったみてえだな)
身を起こし、畑の外に停めてある自転車に向けて歩き出す。
時計を見れば、六時を数分回ったところだった。空には、すでに夜の色が迫っている。
(おっと、こいつも消しておかないと)
足を止めてスマートフォンを取り出すと、
アカウント名の表示は、『
(短い付き合いだったが、お疲れ)
アプリを操作し、アカウント削除の手続きを取る。
覆面ヒーローともお別れだ。本当は最初のメッセージを送った段階で削除しようかとも思ったが、万一のことを考えて残しておいたのだった。
(らしくもねえこと、したもんだ)
ざんばらな黒髪をわしわしと掻きながら、諸々の経緯を思い起こす。
――事の始まりは、昼休みの教室だった。
俯くようにして座っていた、蒼乃が目に留まった。
(ああいうヤツは分かりやすい。なにかため込んでたり、歪んでたり)
普段なら、女子に近づこうなど思わない。
だが蒼乃の雰囲気は、父を亡くした後の母に似ていた。
なんとなく移動教室にかこつけて、近くをすっと通った瞬間。
不意に顔をあげてきた蒼乃と、目が合ったのだ。
(まったく。なんでいきなり顔上げてくんだよ……)
憂いを帯びた瞳から目を逸らした時、たまたまスマートフォンの画面が目に入った。
表示されていた、
蒼乃はおそらく行くだろう。雰囲気から、なんとなくそう思えた。
(何をするつもりも、なかったんだけどなあ)
気が変わったのは軽く寄り道した後、小腹を満たすために立ち寄ったコンビニだった。
たまたま屯していた田所たちが蒼乃の名と、それらしき内容を口にしていたのを小耳に挟んだのだ。
こうなったら、さすがに収まりがつかなかった。
(しっかし、結果として正解だったか。天叢たちがあれだけ大仰な準備するとは、思わなかったけど)
ひとりで助けに行く選択肢は、最初からなかった。
多勢に無勢が分かりきっている中で、陰キャオタクが一人で行っても意味がない。なにより、女子を助けるヒーローなど絶対に御免である。
かといって教員に電話で言ったとしても、身元を明かさなければ信じてもらえない。身元がバレたら結果は同じだ。
(思いつきの捨てアカ戦法、こんなにうまくいくとはな。世の中で流行るわけだ)
まず天叢に無理やりインストールさせられた
次に、タレコミで動きそうな者を見繕う。
白羽の矢を立てたのはクラスのまとめ役である天叢翔、蒼乃と仲が良いらしい光河由佳、そして裏番長と名高い御船大剛だ。
(変に、同じクラスに絞らなかったのも良かった。連絡して動くかどうかだからな)
動いてくれる確率を上げるため、メッセージにも気を遣った。
天叢には自分では力が足りないからと、お願いするような内容で。
光河には蒼乃の名を出し、フックにする。
御船は迷った末、敢えて挑戦状のような形にした。自分でケンカは売らずとも、売られたケンカは買うのがモットーだと聞いていたからだ。
(ゆーてどこの馬の骨ともつかんヤツからのタレコミなのに、あいつら律儀だよなあ。この高校、民度が高いってのは本当らしい)
メッセージを送り終えたのが五時半過ぎ。
学校に引き返した時、田所たちが畑から敷地に侵入するのを目撃したのが四十五分。
蒼乃が部室棟に入ったのが五十五分。
部室棟で三人が合流し大捕り物が始まるまで、ものの数分だった。
(それにしても究極召喚、
御船が無双して終わりかと思いきや、その筋の方々まで出てくるとは予想外だった。
四方城のことは噂程度に聞いていたが、どうやら天叢の彼女らしい。
(どこぞの円卓の騎士団も真っ青だぜ。御船もあれで動くんだから、見かけによらず面白いヤツだよ)
念のため畑に隠れて事の推移を見守っていたが、万事うまく運んだ。
田所たちが敷地内に侵入した瞬間も、きっちり写真に収めてある。印刷して、明日にでも職員室のポストに入れておいてやろうか。
なお万が一、誰も来なかった時は自身で踏み込むつもりだった――などとは決して思っていない。断じてない。
(今後も天叢と仲良くしておけばOK。御船と四方城は怒らせない、もとい触らない。それが分かったのが今回の収穫、ってことで……)
「……待ってッ!」
可もなく不可もない女子の声に、思わず立ち止まる。
女は苦手だ。一定の間隔を超えて近づかれると、動悸と鳥肌で動けなくなる。今、声を聞いただけでも、肌が粟立った。
空耳だと思い込んで、ふたたび歩を進める。
「もう、待ってったらっ……!」
どうやら逃がしてはもらえないらしい。
仕方なく、固い音が聞こえてきそうな動きで振り向く。
息を弾ませ、色白の肌を紅潮させて立っていたのは――。
制服姿の、蒼乃月だった。
「ねえっ、あんたなんでしょ……? 助けてくれたの……」
荒く息をつきながら、蒼乃が問う。
黒髪のミディアムロングにつり目が特徴の、整った顔立ち。革靴どころか、靴下や短く巻かれたチェックスカートまでが、葉や土で汚れている。
一瞥をくれると、ふたたび歩き出す。
「ちょっとっ! 聞いてるんだけどっ! てかそうでないなら、なんでこんなとこにいんのよっ! 不法侵入よっ!!」
たしかに道理なのだが、それを言ったら蒼乃も同罪である。
ちなみに畑の主とは登下校の折に顔見知りになっているので、見つかっても咎め立てはされない。この時分には、主が引き上げているだろうことも織り込み済みだ。
とはいえ、そんなことを説明するのも面倒だった。
「……ん」
めんどくさげに映るように、小さなコンビニ袋を掲げて見せる。
中身は先ほどコンビニで買ったお茶のペットボトルに、おにぎりと唐揚げの包みだ。捨て忘れていただけなのだが、ここは利用させてもらう。
「たまたまここで、ご飯食べてただけ……ってこと?」
肯定の意の代わりに、袋を下げて歩き出す。
苦しい言い訳なのは分かっている。わざわざ追ってきた以上、アカウント名から類推した上での行動だろう。
しかも部室棟を駆け下り、植え込みを飛び越え、フェンスをよじ登った後の猛ダッシュで追いついてきたのだ。大した執念ではある。
「はぁ……。分かったわよ、もういい」
やっとこさ、お許しが出たらしい。
今度こそとばかりに歩き出した――瞬間。
なにかが両肩に置かれた。人の手の感触だ。
不意に、甘い香りが鼻をくすぐった。微かな熱を、背で感じる。
「ありがと」
暖かな吐息が耳にかかる。優しい、声だった。
かと思うと、熱はすっと離れていく。
「う、あ……」
肌が粟立つ。鼓動が早まる。
足が竦み、前に出なくなる。
「て、てんめ……っ」
呻くように言って、振り向いた。
蒼乃は黒髪を揺らしながら、学校の敷地へと歩いていくところだった。その後ろ姿は、妙に機嫌が良さそうに見える。
「にゃろう……」
ようやく落ち着いてきた足を、無理やり動かす。
空はもう、日の入りがすぐそこまで迫っている。
「……二度と関わるもんか」
心の声が、口を突いて出る。
誰にも聞こえぬ誓いが、黄昏時の春風に流れていった。
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