逃避行
「すまない、助かったっ!」
叫びながら追いついてきたアイナとともに、黎一たちは元来た遺跡の道を駆け抜けた。吹き抜け沿いにある階段を一気に駆け下り、上層へと戻った後も、”獣”が追ってくる気配はない。
「はぁっ、はぁっ……さっき、傷、つけられたんですか……?」
「ヤナギ殿が尾を払った時に、両脚を深く斬った。しばらくは動けないだろう」
息も絶え絶えな蒼乃の言葉に、アイナが手で汗をぬぐいながら応じる。
「しかし、あんなデカブツとは……。救助はまだ……」
『フッ、立ち合いの次は駆け比べか?』
アイナの言葉を食うように、中性的な声が響いた。上層のはるか向こう、ちょうど礼拝堂の出口の真下あたりに苔色の靄が集う。それは徐々にひとつになり、やがて”獣”の輪郭を形作る。その姿は心なしか、先ほどよりも大きくなっているように感じられた。
「バカな……! あれだけの手傷を負わせたのに⁉」
「と、とりあえず逃げましょうよッ!」
(いいからお前は手を放せッ!)
言いたいことすら声に出せず、無我夢中に走り出す。
その時――。
『ぶはっ! ようやく繋がったぜッ! おいテメエッ! こりゃ一体どういうことだッ⁉』
「うおうッ⁉」
脳裏に響いた聞き覚えのある声に、思わず声が出る。蒼乃たちの視線が気になるが、今はそんなことを言っている場合ではない。
「お前、今までどこに……!」
『黙れクソガキッ! 聞いてんのはオレ様だッ! なんでアレが目覚めてんだッ⁉』
「知るかボケッ! てか何なんだよあれはッ⁉」
走りながら、声に出して問いかける。
いつの間にか、身体には力が漲っていた。死地を脱したばかりなのに、疲労は微塵も感じられない。
『ったく、よりにもよって厄介なモンを……いいかッ⁉ あいつは
「ぜくす……なんてっ⁉」
先頭を走り、適当な角を曲がりながら、声を張り上げる。
後方から、重い足音が響く。
『あたりの
「あれでカワイイ、だあ……ッ⁉」
ちらと後ろを見た。先ほどまでいた場所に達した”獣”あらため
黎一は、自分の顔が引き
「どうすりゃいいッ⁉」
『こうなりゃイチかバチかだ! オレ様のところまで来い!』
「そのお前はどこにいるんだよ⁉」
『
「ざっけんな! 状況分かってんのか⁉」
『分かってるから言ってんだッ! さっさと来いッ! まず
脳裏の言葉が途切れたと同時に、狭い通路の先に苔色の靄が湧いて出た。どうやら
慌てて戻り、手前の角を曲がって吹き抜けの通路へと戻った。端まで走って獣の巨躯が見えなくなったところで、ようやく足を止める。
「声の人、なんだって……?」
「オレのところに来い、の一点張りだ」
疲れ果てた声で問う蒼乃に応じると、アイナに視線を向けた。その顔には、さすがに疲労の色が滲んでいる。
「あいつが何なのかは分かりません。けど、俺は信じていいと思います」
「……これ以上、悪くなったところで結果は同じだ。行くぞ」
アイナの言葉に、黎一と蒼乃は大きく頷いた。
* * * *
離れた位置にあったもう一つの階段を昇って、最上層へと駆け戻る。
先ほどからの様子だと、蒼乃やアイナには苔色の靄が見えていないらしい。蒼乃などは風の魔法をかけ直しつつ、黎一の手を握り締めて走っている。
『えいクソッ、思いっきり逆に出やがったな! 吹き抜けに沿って真っすぐだ!』
(そんな分かりやすいルートじゃ……ッ!!)
思った矢先、道を塞ぐように苔色の靄が立ち昇った。
ちょうどよくあった、右への通路へと入り込む。
(……やっぱり塞がれるかっ!)
研究エリアとは言っても、構造は中層までの商業エリアと変わらない。吹き抜けに沿うようにして作られた
”声”の指示からすると、目指す場所は吹き抜けを挟んで逆側だった。たどり着くには、
(うまく、やるしかねえかッ!)
『左へ進めッ! 吹き抜けの向こう側に行かねえと……』
(わあっとるわッ!)
手近な角を左へと曲がる。が、ふたたび靄が往く手を遮った。
(だああっ! クソッ!)
已む無く直進する。突き当りに追い詰められたら最悪だ。右へ右へと曲がり、礼拝堂の方角へと戻るべくさらに右に曲がる。だがその往く手を、ふたたび靄が遮った。苦々しい思いで、吹き抜けを目指して直進する。
どうも
『おい一気に振り切れよッ! 埒が明かねえぞッ!』
(ふざけんなこっちゃ普通の人間だぞッ! んなぶっ飛んだマネ……)
と、そこまで言いかけた時、ある考えが閃いた。
――ぶっ飛べばいい。
思いつきのままに、吹き抜けへとひた走る。
「おい蒼乃ッ! 落ちた時に使った魔法、また使えるかッ⁉」
「えっ⁉ つ、使えるけど! どうすんのッ⁉」
「吹き抜け飛び越えるッ!」
「……ッ! 分かったッ!」
狂気としか言えない提案に、蒼乃はあっさりと応じた。アイナも、無言でついてくる。
そうこうするうちに、吹き抜け沿いの柵が近づいてきた。黎一は空いた右手で折れた剣を逆手に持ち、黄金に輝く風を想起して刀身に纏わせる。
「行く、ぞっ!」
掛け声とともに、柵に足をかけ、吹き抜けへと身を躍らせた。
アイナも先ほどの会話で意図を察したのだろう。蒼乃の左手を取り、息を合わせて宙へと舞っている。
「大気を彩る風精よっ! その身を以って我らを護れっ!
蒼乃の声とともに、風の膜が三人を包み込む。それを見た黎一は、黄金の風を纏った剣を元いた通路へと向ける。
「風よっ!」
折れた刀身から解き放たれた風が、唸りとともに爆ぜた。爆風に押され、黎一たちを包む風の膜は放物線を描いて、対面の吹き抜け沿いへと進んでいく。
だが、その勢いは吹き抜けの半ばで止まった。視界の片隅に映る遺構の下層が、奈落の底に見える。
(うわ、ダメか……っ⁉)
「風、我が意に従い礫となれっ!!
心にせり上がった絶望を、蒼乃の声が上書きした。
放たれた風弾によって、ふたたび風の膜が押される。勢いそのままに中空を渡り切り、対面の吹き抜け沿いの通路にふわりと着地した。
「ッ……ッ、ハハハッ。本当に、そなたらは無茶をするな」
降り立った途端、アイナが可笑しそうに言った。その顔には、堪えきれなくなったと言わんばかりの笑みが浮かんでいる。
『ようし、よくやったあッ!! そのまま真っすぐだっ! さっさと――』
嬉しそうな”声”がした数瞬後、遺構を照らす光を大きな影が遮った。
見れば四肢を伸ばした
「……って、
「……って、
『……って、
黎一と蒼乃と”声”、三者三様の言葉が重なる。
脅威の着地を待つわけもない。一行は”声”が示した方角へと、一目散に駆け出した。
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