禁忌の言葉

 苔色に染まっていく景色の中、黎一は蒼乃の手を引きながら遺構の吹き抜け沿いの道を走った。

 白銀のたてがみと翡翠色の角を持つ地精王獣ベフィモスが、後ろからひたすら追いかけてくる。その大きさは、最初に見た時と比べて約二倍になっていた。


『あ……少し……ッ! 一気……走、れえっ!』


(その割にゃお前の声が遠ざかってるが⁉)


 そんなことを思いながら走っていると、突然視界が開けた。

 そこは、吹き抜け沿いの通路の終端に作られた場所だった。壁や床の色は相変わらずの青竹色。壁には用途不明の計器類や石櫃が備えつけられているが、広々とした造りのわりには他に設備らしい設備もない。


「ウソ、行き、止まり……?」


「おい、来てやったぞッ! どこにいる⁉」


 部屋の半ばまで行って声をあげるが、返事はない。

 背後で、どしりという重い音が響いた。振り返れば、地精王獣ベフィモスが悠々とした足取りで迫ってくるところだった。獅子とも豹ともつかぬ顔は、どことなく勝ち誇っているようにも見える。

 その巨躯を遮るように、アイナが前に立った。


「私が引きつける。そなたらはさっきと同じ方法で下層まで飛び降りて、遺跡から出るんだ」


「そんなこと……ッ!」


 蒼乃の言葉が終わる前に、刀を腰だめに構えたアイナが突進した。地精王獣ベフィモスは足を止め、じっとアイナを見つめている。

 数瞬の間をおいて、銀光が閃いた。アイナの刀と、地精王獣ベフィモスの前脚が交錯する。血が飛んだ。アイナの斬撃が、前脚の半ばまでを斬り落としたのだ。

 だが、次の瞬間。


「あ……っ」


 地精王獣ベフィモスが、大きく身をよじった。長い尾が、刀を振り抜いたばかりのアイナの胴を強かに打ち据える。

 アイナの身体が、横っ飛びに飛んだ。そのまま床に打ちつけられ、ぴくりとも動かない。


『良き剣士であった。……さあ、次はどちらが立つ』


 獣の姿から発される中性的な声には、揺らぎがない。斬り飛ばされた前脚口でくわえて傷口に近づけると、靄が脚を覆い隠す。傷を癒しているのであろうことは、容易に想像がついた。

 その時――。


「あんた、まだ動けるよね」


 ――言葉とともに、左手に感じていた温もりが消えた。


「……は?」


 意味が分からずにいると、短杖ワンドを持った蒼乃がするりと前に立つ。その左手には、いつの間にやら赤色に煌めく液体が入った小瓶が握られていた。

 ――治癒水薬ヒール・エキス。王国からの支給品の中に入っていたものだ。数種の治療薬草を魔力マナを帯びた湯で煎じて作ったもので、命に関わる重傷でも立ちどころに治すらしい。


「これ持って、行って。今の私よりあんたの方が、生き残れる可能性あるでしょ」


 左手の小瓶が、押しつけるようにして渡される。

 声が、震えていた。


「なんで……」


「別に。効率いいほうに賭けるだけ。それに……いざとなったら、盾に使うんでしょ。今がその時じゃないの?」


 少しだけ振り向いた蒼乃の顔には、見たこともない笑みがあった。振り切ったような、突き抜けたような――それでいて、どこか諦めたような表情。


「ほら。地精王獣あいつの傷が治る前に、行って」


「あ……」


「フィロちゃんによろしくね。ルナはもう……戻らないから、って」


 言葉を切った蒼乃の身体が、風を纏った。強くありながらも穏やかな空気の流れに、黒髪が舞うように揺れる。


「……じゃあね」


 言葉を置き去りにして、蒼乃が床を蹴った。気づいた時には、未だ前脚が癒えぬ地精王獣ベフィモスへと突っ込んでいる。


斬空風刃スラスティング・エアッ!」


 蒼乃の短杖ワンドの先端から、白く渦巻く風の刃が生まれた。地精王獣ベフィモスは煩わしさにほんの少しの興味を混ぜた様子で、風の刃を左脚の爪で受け止める。

 一撃する度に身を翻し、死角に回り込んで攻撃を繰り出す蒼乃からは、先ほどまでの不調は微塵も感じられない。


「風、我が意に従い礫となれっ!! 風礫招ウィンド・ショットッ!!」


 放たれた風弾が、地精王獣ベフィモスの銀色の体躯を叩く。だがその動きに、淀みはない。

 面白がるように躱し、敢えて受ける様からは、底知れぬ余裕が感じられる。蒼乃の体力が尽きたらどうなるかは、火を見るよりも明らかだった。


(なに、やってんだ。俺は)


 手にあるのは、託された小瓶と折れた剣。打つ手もなく立ち尽くす自分が、どうしようもなく矮小に思えた。


(なんで? なんで、庇う? 俺は、なにも命じてない)


 女子は嫌いだ。蒼乃のことはもっと嫌いだ。

 なにかにつけて噛みついてくるし、自分のルールを押し付けてくる。今だってそうだ。

 それから――。


(ああ、なんだ。それで、いいじゃねえか)


 まだ蒼乃に、それを伝えていない。

 ここで蒼乃が死ねば、それすら叶わなくなる。

 今はそれだけで、十分だ。


(俺は、まだ……蒼乃あいつを失いたくないッ!!)


 右手が、疼いた気がした。見れば手の甲に浮かび上がった勇紋サインが光を帯び、鼓動するかのように脈打っている。

 脳裏に浮かぶは、禁忌の言葉。

 援けになるかも分からない。それでも、今できるすべてを――。


「――勇紋主命サインズ・オーダーッ!!」


 言葉を紡ぎ、右手を突き出す。風を纏い戦う、蒼乃に向けて。


「蒼乃月ッ!! すぐ助けに戻る! だから、だから……ッ!!」


 蒼乃は、振り向かない。

 だがその身に纏う風が、いっそう渦巻いた気がした。


「……俺が行くまで、死ぬなあッ!!!!」


 勇紋サインが、強く輝いた。黎一の手から飛び散った光が流星のごとく降り注ぎ、蒼乃の身体を包みこむ。

 明らかに鈍っていた蒼乃の速さが、元通りに――否、さらに加速した。身に纏う白き風は雷光を帯び、縦横無尽に翔け巡る。


『……面白い』


 地精王獣ベフィモスの声が響いた。

 蒼乃に集中し、ひたすら爪や尾を繰り出す。だが蒼乃の動きは、そのすべてを難なく躱していた。それどころか、雷光を帯びた風弾や風の刃で攻撃に転じている。


(今の俺に、できることは……!!)


 視線を広間の片隅に向けた。そこにはアイナが、動かぬまま横たわっている。

 黎一は手の中に在る治癒水薬ヒール・エキスを握り締めて、アイナの元へと走り出した。

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