第3話 猫の主。
アイリスでモーニングを頂くのは私の夢だ。パンフではトーストにゆで卵とサラダがついているけれど、これをマスターが作っていると考えると尊さが極まる。
でも私の職場はアイリスとは正反対の方角なので平日には来れない。流石に有給を取ってモーニングに来るのは違う気はするし、それをやってしまうと歯止めが効かなくなる気がするから自重している。
アイリスは官庁街のど真ん前だから、土日祝は休みで機会はない……。
「近くの人がサバカンを知らないなら、どこか遠くから来たんでしょうか。それでこのお店の匂いを知っていた、とか」
「匂い、ですか。珈琲にはこだわってはおりますが、そこまで違いが感じ取れるものかは疑問に思えます」
「でもでも猫は嗅覚が鋭い? のでは?」
マスターは何かを思い出すように虚空を眺めた。絵になる。
「そういえばあの日はクリスタルマウンテンでしたね。確かに珈琲の中でも香り高いものではありますが」
そう言ってマスターはクリスタルマウンテンをドリップしてカウンターに乗せれば、サバカンはにゃぁと鳴いた。鳴き声の違いはよくわからない。サバカンがいつもどおりぐるぐると喉を鳴らしながら顔を撫でるのを眺めがら、マスターはサービスです、と告げてカップを私の目の前に置いた。至福。
「吉岡様、飼い主がわかったかもしれません」
「マスター?」
「いつもモーニングにいらっしゃるお客様がサバカンが来たころからお見えになっていません」
「そ、それは遠くの方なのでしょうか!!」
「いえ、県庁にお勤めの方なのですが、1週間程度の出張も多い方なのです。今回もてっきりそうなのかと思っておりました。その
えっお金持ち。
クリスタルマウンテンは単品で頼むととても高い。1杯900円もする。ブレンド、アメリカン、本日の珈琲が500円だから、私は本日の珈琲がクリスタルマウンテンの時くらいしか飲めないというのに!
そういえばサバカンは高い餌しか食べないんだっけ。それにパッと見のホワイトタイガー感も高級感漂う。
県庁というと公務員、お金持ち。首輪もサバカンからも飼い主は何となく綺麗なお姉さん感がする。ぐああ全てが負けている⁉ それで毎朝マスターとモーニングを? 私が500円貢いでいるところを850円貢いでいる?
脳内で打ちのめされた気分に陥る。勝ちようがないじゃんか!
「困りましたね。県庁は平日のみしか開いておりません。アイリスの営業時間中ですからなかなかお伺いするわけにはいきませんし」
推しがしょんぼりするのはよろしくない。
「私がいきます! 私が!」
「吉岡様が? けれども吉岡様もお仕事では」
「いえ! 明後日たまたま有給をとっておりまして!」
「そんな、せっかくのお休みなのに」
「午後から出かける予定があって!! それで午前なら全然オッケーです!!」
またパタパタとお辞儀の応酬。やりとり尊い。
当然ながら明後日の予定なんて全然なく、そもそも有給は明日申請する予定だけどきっと通るだろう、いや、推しのためなら通してみせるんだ。うちの会社はそれなりに緩いから助かった。
歯止めが効かなくなる?
これは推しのため! だから特別! 毎日来るわけではない! 明日だけ!
それでその翌々日。
課長にはもっと早く申請しなさいとかブツブツいわれたけれど、遠くの親戚が危篤になったと不謹慎なことを呟いてしまい、流石に当日は無理かろうと思っていたのに何故か午後休までもらってしまった。
うちの会社は緩いと思いながらなんだかとても居たたまれなくなり、会社を飛び出して早速県庁を目指す。
総合受付で訪ねた相澤さんとやらは観光課の住人らしい。観光課は5階。相澤
ハァ。こちらはしがない会社員だし、比較対象にすらならない感が満々。ハァ。
ため息を付きながら観光課に足を踏み入れれば雑然としていた。カウンターに近寄れば、同い年くらいの髪を短くカットした若い女性が席を立つ。名札を見ると『相澤』じゃない。よかった。
この中に『相澤伊織』がいるのかと思ってぐるぐる見回すと女性は何人かいて、みんな美人だった。ハァ。
「本日はどのような御用でしょうか」
「えっと、あの、相澤さんはいらっしゃるでしょうか」
「相澤は生憎休みを頂いておりまして」
「お休み……。あの、実はこの猫が相澤さんの猫じゃないかという話になりまして。今喫茶店で預かっているのですけど、もしそうなら長期の預かりが難しいんです」
「えっ」
鞄から毎日持ち歩いているチラシを取り出しカウンターに広げる。
「ああ、これはアイリスさんの……。でもこの猫が相澤さんの……?」
「ご存でしょうか」
「その、今相澤は休みをとっているのですが、猫がいなくなって心配だ心配だと騒いでおりまして、その」
カウンターでそんなやり取りをしていると次第に職員が集まって来た。
「え、相澤さんの猫ってこの猫なの?」
「全然ミケじゃないじゃん」
「でも相澤さんでしょ? あの人、柄とか気にしないでしょ」
「あー。名前適当につけそうな印象」
「でもダメ元で聞いてみようよ。事故からもう10日でしょ?」
「えっ大丈夫なんですか?」
思わず聞き返したら、同僚らしき職員たちはしまったという顔をした。
個人情報というのをサバカンに居座られても困ると聴き込んでみると、相澤さんは出張先で交通事故に遭ったらしい。怪我自体は軽傷なものの意識が戻らないため緊急入院したそうだ。
それで5日経過して目を覚まして驚天動地して、医者に止められながらも真夜中にもかかわらず隣県からタクシーを飛ばして自宅に帰り、飼い猫の『ミケ』がいないことに気がついてそっからは屍のように引きこもっているらしい。
どんだけメンタル……いや、大事な飼い猫がいなくなったらそのくらい取り乱しても仕方がない、のかも。それで安静にしていたほうがいいのは間違いないとみんなが無理やり休みを取らせて自宅療養という扱いになっているけれど、相澤さんは『ミケ』が心配で真に何も手につかず、毎日誰かがご飯を買って夜に持っていきつつ、課内全員で『ミケ』を探し回っていたらしい。
「ミケ?」
「そう、ミケ。だからてっきり三毛猫だと……」
サバカンはトラであっても三毛じゃないよな。そもそも2色だし。いや、目の青もいれたら3色ではあるのかな……。
なんだか盛大にすれ違っている気もすれど、サバカンが『ミケ』なのかはまだわからない。だから今晩職員が相澤さんを尋ねてチラシを持って聞いてみる、ということになった。
それで『ミケ』だった場合はアイリスに直接連絡をいれることになった。
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