第2話 猫のチラシ。

「このサバカンは手入れされている感じがありますよね。飼い主の方はきっとサバカンを大事にしているんだと思います。だから探しているかもしれません」

「なるほど。それはそうかもしれませんね」

 マスターは私の内心を知らずに穏やかに頷いた。

 サバカンがマスターに愛でられるのはずるいとちょっと思ってる。でも飼い主がいるなら返した方がいいと思ったのは本当。

「猫の移動範囲ってそれほど広くはないと聞いたことがあるんです。サバカンが迷い猫だとしたら、家はこの近くだと思います。写真を撮って迷い猫の張り紙をしてみてはどうでしょうか」

「なるほど。流石は吉岡様。ええ、おっしゃる通りです。早速そういたしましょう」

 尊い!

 それで私がスマホで写真を撮ってコンビニでネットプリントしている間、マスターがA4サイズの紙に綺麗な枠囲いフレームを作ってその中に店の地図と連絡先を書き込んでいた。


★Ça va canと描かれた首輪のサバトラの雄猫をお預かりしております。

★お心当たりがある方がいらっしゃいましたら何卒ご連絡頂けますよう、お願い申し上げます。

★当方は喫茶店でございますので、長期間お預かりし続けることは出来かねます。


「わぁ。素敵です。特にこの地図!」

「ありがとうございます。40年もここにおりますと地図はなにかと書き慣れておりますので」

 マスターの書く地図は昭和レトロな香りがしてときめいた。でも、気になる言葉があった。

「どのくらいの期間預かれるものなのでしょうか」

「そうですね、本当はすぐにでも保健所に連絡したほうがよいのでしょうが、サバカンは本日最初のアイリスのお客様でもありますので、あまり無碍には扱いたくはないのです」

 マスターは本当に困ったように眉を下げた。

 力になりたいけれど、私のマンションはペット禁止だから預かれない。だから取るべき方法は1つ。


「私がサバカンの飼い主を見つけます!」

「いえ、それでは吉岡様に大変なご迷惑をおかけすることに……」

「何とか! 何とか探しますのでッ!」

 思わずフンスと鼻息が出た。

 マスターはぱちくりと目を瞬かせ、そしてまた申し訳無さそうに頭を下げた。推しの役に立つことが使命ですからかえって申し訳ございません!

 よくわからないまお辞儀の応酬をして、マスターの作ったチラシの枠囲いの中に印刷したサバカンの写真を配置していく。その間に奢りですと入れていただいた珈琲は格別に美味しかった。推しに奢られるなんて恐縮至極。その穏やかな珈琲の香りは優雅な午後に至福を運んでくる。


 尊すぎる珈琲の3分の1ほどは大切にとっておくことにして、馥郁たる香り漂う空間に浸りつつ、仮置きした写真をノリでペタペタと張りながら、なかなか綺麗に貼れましたね、そうですねと推しとの幸福な時間を味わっていたところでガチャンと音がして振り返ると、サバカンがマスターが淹れてくれたコーヒーを蹴飛ばしたところだった。

 畜生! てめぇ!

 思わず心の声が漏れるのを必死に抑えたことを自画自賛してみる。

 カウンターに染みが広がる前にと手近にあったナプキンで拭こうと手を伸ばせば、私の怒気と殺気に恐れをなしたサバカンが私の頭をピョイと超えてタタタとカウンターをまっすぐ走り、その端からすてんと床に降りた音がした。

「あっ」

 推しの呟き尊い。

 そう思って振り返れば、サバカンが走ったルートに沿って珈琲で濃茶に染まった足跡が転々とつき、一直線にチラシを横切っていたことに愕然とする。

 猫の足跡って本当に平たいとこと指跡が4つつくんだなと思う一方、私とマスターの共同作になんてことをと怒りに震えていれば、客席の椅子の下に潜り込んだサバカンはこちらを向いて申し訳なさそうににゃあと鳴いた。

「吉岡様、これはこれで良いような気もします」

「はい?」

「かえって目立つのではないでしょうか?」

 その声に改めて目を移したチラシの足跡は、写真と文字の絶妙な境目を縫っている。うーん、目立つと言えば目立つ、のかな。猫の足跡なんてスタンプやマスキングテープになるほど人気のあるものではある。……許す。

 足跡が乾くのを待って、完成したチラシをコンビニでコピーして、マスターから貼っていいと聞いた町内や行政の掲示板にペタペタと貼ってきた。

 気がつくともう夕暮れで、見上げた空は薄っすらと茜色に染まっていた。


 見つかればいいなぁと思いつつ、1週間経っても新しい情報は入っては来なかった。その間、サバカンはアイリスに居着き、日中はマスターと一緒にいる。羨ましい。

 その1週間の間、私も何もしなかったわけではない。

 SNSで情報を流してみたり、保健所や警察にそれとなく聞いてみたり、お昼休みや仕事後に近所の動物病院に写真を持っていって知りませんかと尋ねたりした。けれども手がかりは全くなく、無力さに打ちひしがれていた。

 マスターも商店会や近所の住民に聞き込みをしてみたけれど、サバカンを知る者も姿を見た者もいないらしい。

 マスターも商店会や近所の住民に聞き込みをしてみたけれど、サバカンを知る者も姿を見た者もいないそうだ。

「見つかりませんねぇ。本当に困りました」

「にゃぁ」

「サバカンはちっとも困ってないみたいですね」

 マスターを困らせているんだからサバカンも困るべきだ。マスターの手前、口にはしないけど、マスターの悩ませているのは許しがたい。

 けれどもサバカンも1週間も経つとカウンターの内側に降りるとマスターが困ることを学習したのか、カウンター上が定位置になっていた。だから文句も言い出しづらい。

 ひょっとしたらサバカンは悪の秘密組織に注射でも打たれて猫の姿になっているだけで本当は喪女とかではないのかしらと思うと、その注射を打たれて自分もアイリスに入り浸りたいという気分にもなってくる。

「餌代もそれなりにかかるので、そろそろ代わりに飼って頂ける方を探そうかなと思いまして」

「そういえば鯖缶って結構しますよね」

「ええ。他にも与えていますが安い餌は食べてくれないのです」

 ブルジョワジー。

「近所の人もみんな知らないんだとしたら、どうしてサバカンはアイリスの前にいたんでしょう。そこに何かヒントがあるような気がします。初心に立ち返りましょう」

「ヒント、ですか……。これまで見たことはなかったのですが。そうですね、確かに敷石の前にきちんと座って、アイリスが開店するのを待っていたようでした」

「アイリスの開店は7時でしたっけ」

「ええ。そうです。開けるとすぐにモーニングのお客様がいらっしゃいます」

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