カフェ・アイリス 猫とカウンター

Tempp @ぷかぷか

第1話 猫現る。

 今日も私は喫茶店アイリスの分厚い1枚扉を開き、その店内に足を踏み入れた。同時に芳しい珈琲の香りが世界を満たす。完全に調和がとれたまろやかな香り。

「……これはブルーマウンテン?」

 そう小さく呟いてカウンターの上の『本日の珈琲』のボードを見ると『クリスタルマウンテン』。残念、キューバか。クリスタルマウンテンはキューバにあるエスカンブライ山脈という高地で栽培されているのだそうな。ブルーマウンテンはキューバの向かいのジャマイカの高地。前にマスターに、そんなわけでブルマンとキューバはよく似ているのですよと教わったことを思い出す。


 私がこの喫茶店アイリスに通い初めてそろそろ半年くらい経つ。

 私がこの店に通う目的。それはこの喫茶店全体に広がるかぐわしき珈琲でもなく、懐かしい純喫茶の風情でもなく、いや、それはもちろん素敵であるのだけれど要素に過ぎなくて、第1番は慣れた手付きでポットをかき回すマスターその人だ。

 あたかも時代に取り残されたようなレトロな喫茶店アイリスは、ここで40年以上お店を開いているマスターというピース抜きでは語れない。

 マスターは私の最推しで、マスターに会うために足繁くこの喫茶店アイリスに通い詰めているといってと過言ではない。

 そして入り口の開く音を聞いたマスターは不意に手元から目を上げた。尊い。

「いらっしゃいませ、吉岡よしおか様」

「こんにちは、マスター。本日の珈琲をお願いいたします」

「わかりました、少々お待ち下さいね」

「にゃあ」


 いつものマスターとのやり取りを想定していたのに、想定外の音がした。

 私の目はマスターしか映していなかったわけだが、音につられてカウンター沿いに目を横に滑らせれば、そこには一匹の灰色猫が伸びをしていた。

 なぜ猫?

 猫好きだけど。

 手を伸ばしてみたらフイと反対を向いてカウンターの内側に飛び降りる。ずるい。私もそっち行きたい。


「お待たせ致しました」

「その猫どうしたんですか? アイリスで飼うんです?」

 珈琲の優しい香りに陶然としていると、マスターは少し困ったように眉尻を下げて僅かに首を振った。

「それが今朝店を開けますとサバカンがドアの前におりまして、そのままするりと店内に入ってきてしまったのです」

「鯖缶?」

「ええ、首輪のところにそのように」

 サバカンという声に反応したのか猫がニャァと鳴いて再びぴょいとカウンターに上がってきた。そしてキャメル色の革の首輪に『Ça va!can!』と彫られている。

「サバカンって変な名前ですね」

「名前ではないかもしれません」

「そうなんですか?」

「ええ。Ça vaというのはフランス語で『大丈夫』という意味なのです。canは英語で『できる』という意味ですから」

 なんだか随分前向きな名前だな。

「この革の首輪にもともと描かれているデザインなのかもしれません。フランス語と英語を組み合わせるというのも妙ですので、やはり名前なのかもしれませんが」

「でも今サバカンって呼んだらやって来ました」


 マスターはサバカンをちょっと眺める。

 サバカンはにゃぁと不満そうに鳴いた。マスターがカウンター下から何かを取り出そうとするとサバカンはそわそわと足をふみふみして、マスターが開封済の鯖缶から少しだけ皿に取り分ければ、嬉しそうに鳴いてガフガフと鯖缶の中身を食べ始めた。猫の分際でマスターに給餌をさせるなんて。ちょこっと腹がたった。

「鯖缶が好きなだけかもしれません」

「うーん……」

「とりあえず閉店後に町内会長と交番に相談に行く予定です。首輪があるので迷子ではないかと思うのですが」

「猫は外に自由に歩かせている家もあるらしいので、そのうち出ていくのかもしれませんね」

「半野良猫というのはこのあたりもよくおりますけれども、この近くでサバカンを見たのは始めてなのです。珍しい姿をしていますからこのあたりに居れば気がつくのではないかと」

 サバカンはいわゆるサバトラという猫だ。白っぽいベースに黒のシマシマでホワイトタイガーみたいな柄、それに目が青で格好いい。サバトラだからサバなのかな。

 確かに綺麗といえば綺麗な猫で、歩いていれば目を引く気はする。かといって店を開けたら箱に入らずそのままいた、ということだから店前に捨てられていたわけでもないらしい。


「食品衛生法で動物を飲食店内に入れるのはよくないそうなのです。特に厨房であるカウンターの内側には。けれどもこの子は止める間もなくするりと入ってしまうので困ってしまうのです。吉岡様、なにか良いお知恵をおかし頂けますでしょうか」

 うひょー! よいお知恵ですって!

 推しに頼られるとか推し冥利に尽きるとはこのことだ。なんとか解決に導かねばなるまい。

 先程から観察した結果、マスターは猫嫌いではない。けれども本当に困っているようだ。

 捕まえようとしたら、またカウンターの内側に逃げていった。

 マスターを困らせるとは極悪猫である。早く……首輪をつけてるってことはやっぱり飼い主がいるってことだよな。それにどことなく毛並みも綺麗で、野良ではない風情がある。

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