第3話
日が暮れようとしていた。
春という季節は、昼間は暖かいが、夜が近づいてくるにつれて寒さが増してくる。
朱雀門を潜り、大内裏を出れば、神泉苑まではすぐである。
神泉苑では
炎と桜。また、その景色が雅やかなのだ。
「あなやっ!」
空海と篁が神泉苑に足を踏み入れると、殿の方から誰かが叫ぶ声が聞こえてきた。
その声を聞いたふたりは顔を見合わせて、殿へと急いだ。
篁と空海が殿の中に入っていくと、広間の前に人だかりができていた。その広間は先ほど、篁が帝に会った場所である。
群がる人々をかき分けるようにして篁は進んでいくと、広間の中央には髪を振り乱した女官が立っていた。女官の着物は乱れており、片方の乳房が零れ出てしまっている。そして、その手には血塗られた太刀が握られていた。
「空海さま……」
篁は隣に立つ空海に声を掛けた。
女官の身体の周りには、黒い
「鬼と化しておるな」
空海がつぶやく。
帝は御簾の向こう側にいた。
その帝を守るように、御簾の前には篁の父である岑守が仁王立ちをしている。
ただ、岑守は丸腰であった。
帝がいることから、殿の中に太刀を持ち込むことは禁止されていたのだ。そのため、殿の中にいる者たちは、帝の警護をする
どこで手に入れたかはわからないが、女官は太刀を殿に持ち込み、ひとりを斬り殺していた。
斬られたのは、着物を見る限り公卿の誰かのようだ。背には刀傷があり、殿の床を血で汚している。
女官は笑っていた。歯をむき出しにし、目を見開いた状態で笑っている。その声は甲高く、とても不愉快に感じる笑い声だった。
「陛下。共に鞦韆を楽しみましょう」
女官はそう言うと血塗られた太刀をぶら下げながら、御簾へと近づいていこうとする。
御簾の前には岑守が立ちはだかっているが、まるで蛇に睨まれた蛙のように岑守は動けない状態となっていた。
女官が太刀を振り上げる。
その刹那、篁は女官の腰に抱きつくようにして突っ込んだ。
偉丈夫。そう呼ばれるほどの巨体を持つ篁が女官にぶつかるのだから、その衝撃はすごいものだっただろう。ぶつかられた女官は、抱きついた篁と共に床の上を転がり、そのままの勢いで広間の外へと飛び出していった。
「篁っ!」
岑守が叫ぶ声がはっきりと聞こえた。
篁は殿の戸を突き破り、そのまま神泉苑の池の中へと落っこちた。
体が水の中に沈んでいくのがわかる。
女官は篁にしがみつかれたままであったが、口元には笑みを浮かべていた。
池の水は、春先とはいえ、まだ冷たかった。
先に水面に顔を出したのは、篁であった。
女官は着ている着物が水を吸って重くなったためか、なかなか浮かんでこなかった。
先に岸へとあがった篁は、ようやく浮いてきた女官のことを見つけ、着物を引っ張るようにして岸へと引き上げた。どうやら、女官は気を失っているようだ。
呼吸を整えながら篁が立ち上がろうとすると、その視界になにか揺れているものが入ってきた。
ちょうど、篁が上がった場所。それは、あの鞦韆が掛けられた桜の木のところだった。
「無事か、篁」
殿から岑守が叫ぶように言う。
しかし、その声が聞こえていないかのように、篁はじっと木と木の間にぶら下がっている鞦韆を見つめていた。
鞦韆には若い女が座っており、ゆっくりと鞦韆が揺れている。
帝は鞦韆についての漢詩を書いていた。
それは、春の訪れとともに、若い女たちが鞦韆で遊ぶ様子を描いた漢詩であった。
まるで、その女は帝が書いた漢詩に出てくる女のようである。
鞦韆に座った女は、篁を見て微笑んでいた。
美しい女であった。まるで天女のようである。
女は篁を鞦韆に誘うかのように手を伸ばしてくる。
その手に篁も応えるかのように、自分の手を伸ばし、女の手を掴もうとした。
「篁殿」
声が聞こえ、篁は我に返った。
振り返ると、そこには空海の姿があった。
いつの間にか、殿からこちらへとやってきていたのだ。
「空海さま……」
篁は鞦韆を指さした。そこに女がおります。そう伝えようと思い、鞦韆の方へと目をやったが、そこには誰もおらず、ただ鞦韆が風に揺れているだけであった。
「篁殿、そこを掘ってみてくだされ」
空海は鞦韆がぶら下がっている桜の木の根元を指していった。
篁は空海の言葉に従い、そこの土を手で掘った。
しばらく掘ったところで、なにか硬いものが手にぶつかった。
白い物体が見える。
それが何であるか、篁にはすぐにわかった。
骨である。それも人のものだ。おそらく、この形状からして頭蓋骨だろう。
篁がその頭蓋骨を土の中から掘り出すと、空海は懐から一枚の紙を取り出して、その紙の上に頭蓋骨を置いた。空海が取り出した紙。それは神泉苑に来る前に空海が梵字を書いたものだった。
そして、空海は
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます