鞦韆《ゆさはり》の女

大隅 スミヲ

第1話

 桜の花が見頃を迎えていた。

 時のみかどである嵯峨さが天皇は臣たちを連れ、神泉苑しんせんえんを訪れた。

 春の神泉苑。特に桜の花が色づく頃、そこはみやびやかな世界が広がっている。

 御簾みすの向こうで、帝は神泉苑の庭を眺めていた。


「なぜ誰も乗っていないのに、鞦韆ゆさはりが揺れ動いているのだ」


 帝が呟くようにいう。

 その疑問に答えたのは、すぐそばに控えていた参議の小野おのの岑守みねもりであった。岑守は帝のお気に入りの臣のひとりであり、最近はどこへ行くにも連れていく人物である。


「風のいたずらでございましょう」

「本当にそうかのう?」

「と、申されますと」

ちんには、風で揺れているだけとは思えぬ」

「左様でございますか……」


 岑守は何か嫌な予感を覚えつつも、帝の次の言葉を待った。


「そういえば、そちの息子……あの偉丈夫いじょうふの名は何と言ったかな」

たかむらにございます」

「あれは、が見えると聞いておるが」

「はて、誰がそのような噂を」


 とぼけた顔をして、岑守はいう。

 嫌な予感というものは当たるものだ。


 岑守の長男である篁は、身の丈が六尺二寸(188センチ)の長身であり、人混みの中を歩いていても頭ひとつ突き抜けるため、目立つ男だった(ちなみに平安時代初期の男性の平均身長は160センチ前後であることから、篁がいかに大きかったのかがうかがえる)。

 さらに篁は武芸の腕が立つことでも有名であり、岑守が陸奥守として赴任していた頃は蝦夷えみし相手に武功を挙げて、その名を轟かせていた。


「誰が言っていたかは、朕も覚えてはおらぬ。篁をここに呼ばれよ」

でございますか」

「当たり前じゃ。いま呼ばねば、いつに呼ぶというのじゃ」

「失礼いたしました。では、すぐにでも使いの者を出して、篁を呼びましょう」


 岑守はそう帝に告げると、従者を呼び、急ぎ篁を連れてくるように伝えた。

 その間も、鞦韆は揺れている。

 鞦韆ゆさはりというのは、木と木の間に太く上部な紐をぶら下げ、そこに座れるように木の板などを置いたものである。これは、現代でいえばブランコであり、という名で中国より伝わったものであった。


 しばらくして、神泉苑の殿とのに大きな男がやって来て、頭を下げた。


小野おののたかむら、参上いたしました」


 帝は自分が思っていたよりも篁が大きかったので、驚きを隠せないといった様子だった。


「良い、おもてを上げよ」

「はっ」


 篁が顔をあげると、御簾みす越しではあったがそこに帝の姿があった。


「そちは、あやかしが見えるそうじゃな」


 そう帝に聞かれ、篁は少し困ったような表情を見せた。

 答えて良いのか。そう父である岑守に目で訴えかける。

 岑守は自分で考えよと言わんばかりに、篁の視線に気づかぬふりを決め込んでいた。


「見えます」

「ほう。あやかしとはどのようなものじゃ」

「何と言いますか……。黒いもやのようなものもあれば、はっきりとした姿かたちを見せるものもございます」

「そうか。では、あの鞦韆をどう見る」


 帝はそういって、持っていた扇子で少し離れたところにある、木と木の間にぶら下がる鞦韆を指し示した。


「揺れておりますな」

「誰もいないのに、揺れているであろう」

「確かに」

「岑守は風のいたずらだと申しておるが、いまは風は吹いてはおらぬ」

「確かに」

「篁よ、そちはどう見る」


 その問いに篁は少し考えるような素振りを見せた。

 おそらく帝は、あやかしの仕業だと篁に言ってほしいのだろう。しかし、あの鞦韆の揺れは父のいうように風の仕業だろうと篁も思っていた。


「あやかしとは、人の心が作り出すものにございます」

「ほう。まるで坊主のようなことをいうな、篁」

空海くうかいさまの受け売りでございます」


 篁はそう言って頭を下げた。


 空海。それは後に弘法大師と呼ばれるようになる高僧である。いまは帝よりの勅命ちょくめいにより、中務省なかつかさしょうに居住していた。


「ほう。空海か」

「はい。空海さまには色々とお世話になっております」


 空海と篁は、父の紹介で知り合っていた。父、岑守と空海は漢詩などを共に読み合う仲であり、その折に篁も空海より漢詩を学んだりしているのであった。


「あやかしについても、空海がそのように申しておるのか」

「はい。私はそのように聞いております」

「では、あやかしなどは存在せぬと?」

「そうは申してはおりませぬ」

「どういうことだ」

「人は目に見えぬものを恐れます。だから、目に見えぬあやかしを作り出してしまうのです」

「それでは、あやかしなどおらぬと言っているようなものではないか」

「いえ、あやかしは存在しております。ただ、陛下の目には見えぬだけなのです」

「朕には見えぬと申すのか」

「はい。陛下のようなお方の目に、あのようなけがれを映すわけには参りませぬ」

「そうか……。では、あの風もなく揺れる鞦韆はどうなのだ」

「ここは神泉苑にございます。陛下の庭に、穢れなどがおりますでしょうか」

「確かにそうであるな。朕の勘違いであったようだ。さすがは篁じゃ」


 満足そうに帝は言うと、篁は頭を下げた。



 神泉苑から出た篁は、背中に嫌な汗をかいていた。

 帝の前で緊張していたということもある。

 言葉をひとつでも間違えれば、帝の機嫌を損ねるようなことがあれば、篁の命はそこになかったものとされるのだ。


 だが、この汗はその緊張から来るものだけではなかった。

 鞦韆は風もなく、動いていた。

 最初は父の言うように、風のせいだと思っていた。

 一度揺れだした鞦韆は、なかなか止まることはない。

 しかし、そうではないということに、篁は気がついていた。

 帝に、なぜ鞦韆が揺れているのかと聞かれた時だ。

 あの時、篁は見ていた。

 鞦韆の掛かっている木の脇にたたずむ女の姿を。

 薄い着物のようなものを着た女は、こちらをじっと見つめていた。

 髪はかしておらずボサボサであり、酷く痩せこけている。痩せこけた体は着物の隙間から乳房が見えるほどであり、その乳房も皮だけのようだった。

 その目は黒い穴が開いているかのようであり、口からは欠けた歯が数本見えていた。

 なぜ歯が見えているのかといえば、女は笑っているのだ。

 女は笑いながら、こちらをじっと見ていた。


 これは、自分ひとりでは手に負えないだろう。篁はそう悟っていた。

 あやかしの姿を見ることはできるが、それ以上のことは何もできない。ここは空海に相談すべきだろう。

 そう判断した篁は神泉苑の殿を出る際に、父の従者へ帝に危険が及ぶかもしれないという旨を伝えておいた。

 そして、篁はその足で空海のいる中務省へと向かうのであった。

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