第40話 先輩のことめちゃくちゃにしたげます

「え、いや、なにを……」

「ってことは、私にもチャンスがあるってことすよね?」

「は?」


 小南江さなえはその深く輝く瞳でじっと武士郎を見つめてくると、ぐぐいっと顔を近づけてくる。

 あまりにいきなりのことに、武士郎は身体が固まってなにもできない。

 目の前ほんの十センチまで顔が近づいてきた。

 お互いの息遣い、小南江さなえのコスメの香りまでわかる距離。

 白い肌に紅色の唇、それがそっと近づいてきて――。


「ま、待て」


 思わず顔をそむける。


「えへへ、マルちゃんには秘密すよ」


 小南江さなえはそのまま顔を寄せてきて、武士郎の耳にチュッと口づけをする。


「はっ!? なっ!?」


 あまりの驚きに武士郎の身体が硬直する。その武士郎の耳たぶを小南江さなえはぺろりと舐めた。

 ぬるりとして暖かい粘膜の感触、ゾクゾクゾクっと快感の震えが走った。


「待て、待て、待て! 酔ってんのかお前、クスリでもやってんのか」


 そうでもないと説明つかんだろ、こんなの。


 それに。


 これは、舞亜瑠まあるへの裏切りだ、と武士郎は思った。

 小南江さなえもそうだし、こんなことを許していたら武士郎自身も舞亜瑠まあるを裏切ることになる。

 だって、武士郎は今まで気づいていないフリをしていたけど、心の奥底では舞亜瑠まあるの気持ちに気づいていたから。


「だって、先輩……妹とそういうことになるのって、よくないと思うんす」

「……え?」


 妹、妹って言ったかこいつ、こいつも俺たちが兄妹だったって知ってるのか?

 いや中学校のときからの舞亜瑠の友達なんだから知っていたかどこかで気づいたかしていても不思議ではないけど、でもなんでこんなタイミングで?


「私なら、いいすよ。なんでもしていいすよ。面倒くさいこといわないでエッチなこと全部していいすよ、私は経験ないわけじゃないし、いろいろ二人で勉強しましょう。だから、先輩、マルちゃんは妹として可愛がってあげて、私を彼女として可愛がってください」


 経験ないわけじゃないってどういうことだよおいおいおい。さっき歌を聞いたときよりも頭が混乱しているぞ。


「待て待て待て駄目だ駄目だ駄目だ」

「あ、もうマルちゃん帰ってくるかな、じゃあ覚えていてくださいね、私、先輩のことめちゃくちゃにしたげます、身体で。私と付き合うことも考えていてくださいね、マルちゃんみたいなままごとみたいことだけで満足しちゃ駄目すよ」


 そういってパッと武士郎から離れる小南江さなえ、そこにちょうど舞亜瑠まあるが帰ってきた。


「ん? どうしたの、歌ってないの?」


 不思議そうに聞いてくる舞亜瑠まある


「あ、ああ、次の曲迷っていてさ……」


 ごまかすようにそういう武士郎、曲を入れるためのタブレットで半分顔を隠しながらじっとこちらをみてきている小南江さなえ


 ……妹、って言ってたな。


 小南江さなえも知っているんじゃないか!

 っていうか今のはなんだったんだ?

 まだなめられた耳たぶがジンジンとしびれているような気がする。

 ええ?

 こんなことってあるか?

 なんともないような顔をしてまた歌を歌い始める小南江さなえ

 女ってやつは怖すぎねえか?


     ★


「よし、今日は段位戦やっていくぞー」


〈ちゃぷちゃぷー〉

〈兄ちゃんもちゃぷちゃぷって言え〉


「絶対に言わん。それは妹の配信のときに言ってくれ」


 解散して帰宅したあと、その日の夜。

 武士郎は気晴らしに一人で麻雀配信をすることにした。

 今日小南江さなえになめられた耳たぶにはまだ感触が残っているような気がする。

 ただの妹の友達、ただの無害な女の子、ストーカー被害を受けているかわいそうな女の子、そう思っていたのに。

 なんだか小南江さなえに対する認識があの数分間で突然全部ひっくり返ってしまった。

 そういう対象じゃなかったのに。

 そういう対象に入ってしまった。

 ただの後輩だと思っていた女子にあんなことされて、自分の心や身体がピクリとも反応しなかったといえば嘘になってしまう。

 くそ、あいつ、どうしてあんなことをしたんだ?

 お前は舞亜瑠まあるの友達だろう?


「んー、ここはチートイツに向かって駄目なら降りですねーとりあえず二索リャンゾーを切っときましょう」


〈それドラやぞ〉

〈チートイツに向かうと言いながらドラを捨てていくスタイル〉

〈大丈夫か? 今日ちょっとぼーっとしてない?〉


 コメント欄に心配されるほど意識をあのことに持っていかれている。

 いかんいかん、いかんなあ。


〈で、今日三人でカラオケ行ったんでしょ? 楽しかった?〉


 そのコメントを横目でちらっと見て、武士郎は考えた。

 カラオケの話なんて今日は一度も配信でしていない。

 つまり、こいつは小南江さなえのストーカーだ、今日もついてきてたんだろう。

 今日ここで決着つけてやろうか、とふと思った。

 武士郎は何気ない感じで話しつづける。


「そうなんだよ、今日さ、妹と、妹の友達とでさ、三人でカラオケ行ったんだよ」


〈お、みずほちゃんとカラオケか、いいな〉

〈みずほちゃん歌うまいもんな、たまに歌枠やってたもんな〉

〈兄ちゃんは歌うまいのか?〉


「俺はそうでもないよ、中の中か中の下くらいじゃね? みずほは歌うまいよなー。でさ、妹の友達ってのが歌が最高に下手でさー。あまりの下手さに脳みそがトリップしたよ」


〈みずほちゃんの友達もかわいいのか?〉


「ああ、かわいいと思うよ、でさ、思うんだよなー。あいつ、今彼氏もいないしさ、いいやつがいたら紹介してやりたいよ」


〈じゃあ俺が〉

〈いや俺が〉

〈俺俺〉


「でさー、今その妹の友達に、ストーカーみたいなのがついてるんだよな。どういう経緯でそうなったのかまでは俺は知らんけどさ。片思いの苦しさとか振られるつらさとかは俺もわかるからさ」


 ふと里香の顔を思い出す。

 あんな女でも、好きだったときがあったのだ。


「俺、話し聞いてやりたい。別に俺がその友達と付き合ってるってことはないし、それこそ妹みたいなもんで女として見たこともないし」


 耳たぶにのこる舌の感触。

『なんでもしていいすよ。私を彼女として可愛がってください』

 それまで聞いたことのなかった、少し媚びの入った声。


「結果は約束できないけどさ。結果はまったく約束できないけど、協力くらいはしてやってもいい。もしこの放送を見てたら、俺に連絡をくれよ」


〈んん?〉

〈え、なに、そのストーカー、この配信を見てるの?〉

〈なにこれちょっと怖いことを言い始めた〉

〈あれ、俺らホラー実況みてたんだっけ?〉

〈怖い怖い怖い〉


 そんなコメントの中に一つ。


〈協力してくれるなら相談してやってもいい〉


 さっきと同じコメント主のコメント。


「おお、待ってるぞ。まあ直接来てもいいし。妹とその友達がいないときがいいな、怖がらせると悪いからな」


 そう言った瞬間だった。

 武士郎のスマホが震動してメッセージが来たことを伝えた。

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