神に祝福された一族、あるいは呪われた一族

あいうえお

神に祝福された一族、あるいは呪われた一族

「わたしはすでに死んでいるの。だから、ごめんなさい」



 彼女が言った。その無表情からは一切の感情も読み取れない。

 両手の中にあった小箱から銀のリングが零れ落ち、夕刻の草はらの暗緑色の影に隠れる。落下音はしなかった。


 その様子をぼんやりと眺めながら、青年は心のなかで台詞を反芻する。

 私はすでに死んでいる。この言葉から読み取れるのは、彼女は自らを死人だと認識しているということ。

 だが死に反して彼女は今ここに存在している——いや、存在させられていると言ったほうが適当なのかもしれない。


 例えばそう、異なる世界に生きる存在の手による、人智を越えた力によって。

 青年にはそういうことに心当たりがあった。ひとつ大きく息を吸い込んで決意を固める。



「きみは……怪異なのか?」



 怪異。他人に正体を知られれば姿を保てなくなる、不安定で不可解な現象の総称。


 その単語を喉から絞り出すのにはとても勇気が要った。しかし彼女は強張った青年の顔なんて気にも留めないで、躊躇いなく首を縦に動かした。



「ええ」



 伸ばされた手が青年の頬に触れようとして、だが宙を切る。彼女は少し寂しそうな顔をしてみせた。

 故意であれ偶然であれ、他人に怪異であることを知られた人ならざるモノは実体を失ってしまった。もう二度と現世のものに触れることはできないのだ。


 それを理解した瞬間、青年の中のなにか──世界に対する希望だとか幸福への欲求だとかが色を失った。

 本当に世界は残酷だ。人を愛せなかった自分がようやく他人を好きになることが出来たのに、まさかその唯一が怪異だなんて。


 口が嫌な感じに歪むのが青年自身にもわかった。



「……そうか。そうだったんだね。なるほど、わかった。理解したよ」



 自分を納得させるかのように呟いてからスーツの胸元に手を入れた。中身のない指輪のケースをしまい直し、代わりに仕事道具を手に掴む。その体勢のまま問いかけた。



「前にも言ったと思うけど、僕は祓い屋の家系に生まれた人間だ。その意味をきみは正しく理解している?」



 彼女は肯定の意を込めた笑みを浮かべる。水面に映る月のように儚く、そして艶麗に。


 きっとこのあとの青年の行動を覚悟した上で自身の正体を告白してきたのだろう。そうでもなければこんな笑顔は作れないはずだ。


 じわりと滲んできた涙を飲みこむと、しゃっくりみたいな息が零れた。


 祓い屋の仕事は生と死の境界を保つために人世から怪異を消すこと。

 だから青年はこれから彼女を二度目の死に追いやらなければならない。


 許さないでくれと心のなかで懇願しつつ、仕事道具を出した。金属でかたどられた五芒星のペンダント。祓いのために作られた特別な一品だ。


 きつく握り込んでいたトップを彼女の胸の前に持っていく。人間でいうと心臓の上。神への祈りを口にのせて怪異を消滅させる——世界を正す力を注ぎ込む。そのあいだ彼女は身動きひとつせず自身の胸元を見つめていた。


 変化は一目瞭然。彼女の体を構成していたはずの色が次第に空気に解けて姿かたち、いやそれだけでなく存在自体が揺らいでいく。青年にとっては嫌になるほど見慣れた光景だった。


 消えゆく自分の手を見つめて、何故か彼女は心底可笑しそうに笑った。



「最後に言い残す言葉はある? 元恋人のよしみで聞いてあげるよ」



 毅然とした声で問うた。けれども顔はすでにぐちゃぐちゃで、声だけ取り繕っても意味が無いことは青年も重々承知している。


 彼女が透けていくのと視界が歪んでいるのとで、もう彼女の姿はほとんど見えない。

 そうねぇ……と少し考えるような間があって、それから彼女は口を開く。山の向こうへと沈んだ夕日の残光が最後に彼女の身体をすり抜け、



「愛してるわ」





 そして、夜が来た。


 青年は一人、暗がりのなかで子供みたいに大きな声で泣きじゃくった。こんなに大泣きしたにはいつ以来だろうか。


 祓い屋一族は、怪異を見つけ次第すぐに消さなければならない。たとえソレが友人や家族、恋人だったとしても容赦はない。


 力を与えられる代わりにそういう使命を授かった、いわば神に祝福された――あるいは呪われた一族なのだ。



「……君を愛してしまってごめんな。でも、ありがとう」



 怪異となってしまった母が父に消されて以来、世界に希望を持てなくなっていた空虚な自分に温もりを与えてくれた愛しい人。


 彼女の消えゆく間際の顔は逆光で見えなかったけれど、きっと笑いながら最期の涙を流していたに違いない。色を失った世界の中、根拠もなしにそう確信できた。

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