かいこう-5-

「ねえ、ママ。どうしたらいいと思う?」

 女は小魚とたわむれながら言った。

「毎日会っているという男のことかえ?」

 落ち着きのある女性の声が海の底から響いてくる。

 声ははるか上にまで達し、海面に小さな波を生じた。

「そう。すごくステキな人なの」

「お前も年頃さね。私は何も言うまいよ。お前が選んだ相手なのだから」

「そうじゃなくて! 困ってるの」

 女が声を張ったせいで驚いた魚は逃げてしまった。

「毎日会えるのはすごく嬉しいんだけど、いつも日が沈むと帰っちゃうの。もっとたくさんお話したいのに」

「そう言えばいいじゃないか。人間とは言葉にせねば伝わらぬ生き物よ」

 女性が言葉を発するたび、海中にうねりが起こった。

 目に見えない波が海草を揺らし、クラゲの群れを向こうに押しやった。

「難しいみたいなの。あの人は陸に住んでいるから、夜になると帰らなくちゃならないんだって」

「ふん……難しいことなんてあるもんかい。帰れないようにすればいいのさ」

「どうするの?」

「手荒な真似はしないさ。人間は脆弱ぜいじゃくだからね。明日、いつもどおりにその男と会って話しな」

「大丈夫かなあ……?」

「その男の返答次第さね。言っておくけど過ぎた期待はするもんじゃあないよ。いざとなったらわが身かわいさに翻るのが人間さ」

「返答ってどういうこと?」

「訊いてごらん。”帰りたいか、残りたいか?”とね。帰りたいと答えたら岸まで送ってやるんだよ。それで仕舞い。残りたいと答えたら連れて来ればいい」

 もっと詳しく聞かせて、と女は海の底深くへと潜っていった。

 





 何度目とも分からない逢引である。

 静かな海の上で二人、同じ時間を過ごす。

 しかし男には気がかりなことがあった。

 体調がすぐれないと偽り、もう何日も漁に出ていない。

 心配した仲間が見舞いに来るたびに後ろめたさを感じている。

 今の彼は元気そのもの。

 人生で最も精力が満ちていると言っても言い過ぎではない。

「なにか考えごと?」

 それが顔に出ていたのか、女は不安そうに訊いた。

「いや、うん、大したことじゃないよ」

 彼は笑い飛ばした。

 天秤にかけるまでもない。

 蓄えはそこそこあるし、漁にはいつでも復帰できる。

 面倒な仕事に忙殺されるより、彼女と過ごすほうがずっといい。

「そう……?」

 表情は晴れない。

 この憂いを帯びた顔がまた、男の心をくすぐるのである。

「僕はきみとの時間が一番大切だと思っているから」

 この言葉に偽りはなかった。

 本心だった。

 しかし現実的ではなかった。

 だから時が過ぎ、空があかね色に染まる頃になると女は悲しんだ。

 ああ、またこの時がきてしまったと。

 夜になると彼は帰ってしまう。

 明日も来てくれるだろうか、と気を揉まされる。

 次第に暗く、黒くなっていく空を見上げて女は言った。

「あなたとずっと一緒にいたいわ」

 男は女を見つめた。

 暗がりの中では顔ははっきりしない。

 ――が、懇願するような声色から表情は読み取れた。

「僕もだ。僕もきみとずっと一緒にいたい」

 そう言った瞬間、異変が起こった。

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