かいこう-6-(終)

 いでいた海がにわかに沸き立つ。

 四方の海面が激しくうねり、ごうごうと音を立てた。

「な、なんだ!?」

 暗闇が恐怖を加速させる。

 海全体が揺れるような感覚に、男はボートのへりにしがみついた。

(ママだわ……)

 逆巻く怒涛が舳先へさきからほとばしるように陸へと伸びた。

 篝火こうかのわずかな明かりは頼りなく、海面に起きている変化を見わたすことができない。

 大時化おおしけだ、と男は思った。

(そんな兆候はなかったハズなのに……)

 彼も漁師として一端いっぱしだったから、海の荒れかたくらいは分かっていた。

 いくら天候は変わりやすいとはいえ、ほんの数分まで凪いでいた海がここまで荒れ狂うなどありえないことだった。

「急いで港に戻らないと……! きみも早く帰ったほうがいい! 海の底なら安全だろう!?」

「大丈夫よ、すぐに収まるから」

 狼狽ろうばいする彼に比して女は恬然てんぜんとしている。

「――それより……ずっと一生にいましょうね」

「なんだって……?」

 彼が訊き返すのと同時に、海の向こうで灯台の光が消えた。




 港は大騒ぎになっていた。

 突如、海から巨大な女性が現れたのだ。

 その高さは軽く三〇メートルを超えている。

 人々はそれを見て怪物だと叫んだ。

 クラーケンだ、セイレーンだ、海神だ、とわめくばかり。

 信心深い者は祈りを捧げた。

 そうでない者は山に向かって逃げた。

 しかし女性はそんなちっぽけな存在を一瞥すると、ゆるりゆるりと岬へと向かう。

「ば、化け物だ……!!」

「あれはきっと豊漁の神様にちがいない! 私たちにご利益をくださるんだ!」

「はやく逃げろ! こっちへ来るぞ!!」

 彼女が一歩進むごとに大地が揺れ、海は波しぶきを上げた。

 うねりとうなりが徐々に大きくなる。

 巨体は灯台の前で歩みを止めると、両腕を伸ばした。

「灯台を壊すつもりだ!」

 誰かが叫んだ。

 やはりあれは人間を脅かす邪悪な存在なのだ、と彼らは恐れた。

 あるいは自分たちの生き方になにか過ちがあって、神罰を下すために寄越された神の御使いなのだと。

(相変わらず好き勝手なことを言う生き物だねえ)

 彼女が思わずついたため息は、突風となって湾を駆け抜けた。

 人々はすくみ上がる。

 平和な暮らしを蹂躙じゅうりんされるのだと恐れおののく。

 逃げまどう彼らはすぐにはそれに気付かない。

 この巨大な怪物が特に何をするでもなく、抱きすくめるようにしてただ灯台を覆い隠しているだけだということに――。



 嵐はおさまった。

 ボートが転覆しそうなほど揺れていた海面も、今はウソのように静まりかえっている。

 静寂だった。

 時の流れを感じないほどに。

 海の上にいることを忘れさせるほどに。

 静かで――そして、暗かった。

 灯台の光を覆い隠され、方角も位置も見失った男は呆然としていた。

「……あなたに聞きたいことがあるの」

 女の声は耳元で囁かれたものなのか、それともはるか遠くからの叫びなのか、彼には分からなかった。

「陸に帰りたい? それとも……私と一緒に残りたい?」

「なにを言ってるんだ? そんなの、もちろん決まって――」

「帰りたいなら送ってあげるわ。あなたの力じゃ陸までたどり着くことはできないから」

 そんなに流されてしまったのか、と彼は思った。

「でも、そうしたら……私たちは二度と逢えなくなるの」

「ど、どういうことなんだい? それは……」

「ママに聞いたの。それが海のおきてなんだって。住む世界がちがう者同士はあまり長くいちゃいけないのよ」

「そんな……」

「だけどもし、あなたが帰るのを諦めてくれたら、ずっと一緒にいられるわ」

 暗闇の中では互いの表情は見えない。

 声と、そして触れた感触だけがお互いを知る唯一の情報だった。

 男は考えた。

 彼女と別れ、漁師を続けるのか。

 それとも漁師をやめて、彼女と添い遂げるか。

 充分に迷ってから、彼は答えた。







 真っ暗な海に水しぶきが上がった。


 一艘のボートがそこに残された。


 突如現れた怪物は灯台に傷ひとつつけることなく、海の彼方へと消えた。


 無人のボートは何日か海洋をただよったあと、嵐に遭って沈んだ。

 

 一ヶ月後。


 赤いスカーフが港に流れ着いた。


 それは海面をさまよいながら灯台のある岬ちかくの浜に打ち上げられたが、誰ひとりそれに気付かなかったという。






   終


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かいこう JEDI_tkms1984 @JEDI_tkms1984

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