かいこう-3-
翌日。
女のことが気になった彼は、日が昇るのを待ってからひそかにボートに乗って海に出た。
仲間は昨日とは別の海域に出ているから見つかる心配はない。
「この辺りだったな」
男は飛び込んだ。
そう都合よく逢えるとは思えなかったが、もう一度あの美しい顔を見たかったのだ。
銀色の大きな魚がゆらりゆらりと泳いでいる。
小さな魚たちは遠慮がちにその真下をくぐり抜ける。
クラゲはただよい、海草は踊る。
岩に腰かけた女は黒髪をかきあげた。
(本当にいた……!)
彼はそっと近づいた。
それに気付いた女は肩越しに振り返ると微笑した。
「ここにいたら、また会えるんじゃないかと思って」
女は言った。
(海中なのに声が聞こえる? やっぱりこの女は……)
人間ではない、と彼は思った。
返事をしようにもこちらは声を出せない。
彼は身振り手振りでどうにか伝えようとする。
だが息が続かなくなり、彼は頭上を指さすと同時に海面から顔を出した。
「人間は不便ね」
女はボートの上にいた。
「き、きみは何者なんだ? 人魚……ではないようだが」
船べりから投げ出した足は人間と変わらない。
ただ、それを確かめたのも一瞬のこと。
布一枚だけの煽情的な容姿は、ウブな男に直視を許してくれなかった。
「海の神様と言う人もいれば、恐ろしい怪物だと言う人もいるわね。あなたはどっちだと思う?」
もしこれが純真で鈍感な男をたぶらかすものだとすれば――。
男はかぶりを振った。
そんなハズはない。
人間を襲う怪物の類だとすれば、とうにそうしているハズだ。
ここには彼ひとり。
しかも無防備なのだから。
「どちらでもない……と思う。できれば危害を加えない存在であってほしいけど……」
「あら、私だって身に危険が迫ればやり返すわ。あなただってそうでしょ?」
「そう、だね」
二人は笑った。
「驚いたよ。まさかこんな美――不思議な人がいるなんて……それに……まさかもう一度逢えるなんて――」
「私もよ。夜明けからずっと待っていたの。それより上がったら? 私は平気だけど長く浸かっていると体が冷えちゃうんじゃない?」
やっぱり人間は不便だ、と言って女は手を差し伸べた。
その手を遠慮がちにとった彼は、ぐいっとボートに引き上げられた。
「昨日はどうしてどこかに行ってしまったんだい? あれからすぐに潜ったのに、きみはいなくなってた」
「だってあなたの連れの人、なんだか荒っぽい感じだったもの。私、ああいう人が苦手なの」
「ん、ああ、あいつか。そうだね。言われてみればたしかに」
「ああいう人は、私みたいなのを捕まえて見世物にするんだわ。ああ、人間っておそろしい!」
「僕も人間なんだけど?」
「あなたは大丈夫よ」
女は宝石のような瞳で男を見つめた。
わずかの曇りもない
「ど、どうしてそう思うんだい?」
「直感かしら。一目見てそう思ったの。でも、きっと間違いじゃないわね」
女のちょっとした言葉、わずかな所作に彼はいちいちドキドキした。
不思議だった。
目の前にいるのは女の姿をした――得体の知れない存在だ。
海中で声を届けることができ、魚のように素早く泳ぐことができ、そしておそらく水の中でも外でも呼吸ができる……。
本当は世にも恐ろしい化け物で、人の姿に化けているだけかもしれない。
――とは彼も考えていた。
だがそうした危惧よりも、彼女をもっと見ていたい、もっと話をしたい、という欲求のほうがずっと強かった。
だから彼はそうした。
気が付くとすっかり日は傾いていた。
青天は深紅に転じ、黒く塗りつぶされようとしている。
「そろそろ帰らなきゃ」
「もっとお話ししましょうよ。私、あなたのこと、もっとよく知りたいの」
「僕もそうしたいんだけど、でも、ごめん。明日も会えるかい?」
「もちろんよ。同じ場所にいるわ」
「なら明日も来るよ」
「ええ、待ってる」
男は名残惜しそうに何度も振り返りながら、灯台の明かりを頼りにボートを進めた。
その後ろ姿を見送っていた女は、夜闇に
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