かいこう-2-

 今日、海のおだやかさはあまねく広がっている。

 空よりも広いのではないかと思わせるほど、海は寛容で、優しく、慈愛に満ち満ちていた。

 幻想的な光景は男から意欲を奪った。

 この美しい海で悠々と泳ぐ魚介を、金儲けのために殺してしまっていいのか――?

 彼らは何も知らないのに?

 ただ、運悪くそこを泳いでいるというだけでモリに突かれ、船に引き揚げられ、さばかれるのが運命だというのか?

(どうかしてる……)

 男は考え直した。

 ただの漁ではないか。

 魚も貝も、彼らだって何かを襲って食いつないでいる。

 同じことを自分もするだけだ、と。

 モリを握りしめ、彼は岩場を回り込んだ。

 そして、分かった。

 やはりあれは見間違いなどではなかったのだ。

 ――女がいた。

 布を一枚まとっただけの、黒髪の女だった。

 それが何をするでもなく、まるでクラゲのようにただよっている。

(まさかセイレーンか……!?)

 彼は漁師たちの間でささやかれている噂話を思い出した。



 海の上で女の歌声が聴こえたら、すぐに耳をふさげ。

 さもなくば怪物セイレーンに海底に引きずり込まれ、骨まで食い尽くされる。



 彼は慌てて海面に上がろうとした。

 ――が、ふいに浮上をやめた。

 追ってくる気配がない。

 おそるおそる振り返る。

「…………」

 いぶかしむ彼に、女はにこりと微笑んだ。

 男は思った。

 美しい――。

 この世の中に、彼女ほど美しい者がいるだろうか?

 恐怖心が薄らいだ彼は、女の顔をもっとよく見ようとした。

 だが息が苦しくなり、海面へと引き返す。

「大丈夫か?」

 ボートから身を乗り出した仲間が声をかけた。

「お、女だ! 見間違いじゃなかった! この下に……いるんだ!」

「なんだって!? ……あ、おい! オレも行く!」

 肺がいっぱいになるまで酸素を吸い込み、男は再び潜った。

 やや遅れて仲間も続く。

 だが、女の姿はなかった。

 岩礁や海草の陰も探したが、どこにも見当たらない。



「疲れてるんだよ、お前は」

 寝転がる男を仲間は気遣った。

「セイレーンなんているワケねえ。あれは同業者が自分たちのシマを守るためにでっち上げたデタラメさ」

「あれがセイレーンかどうかは分からない。でも見たんだ。あんなに息が続くハズがない。人間じゃないのはたしかだ」

 そう言い、男は目を閉じる。

(あれは何だったんだ……?)

 ほんの数秒の間だったが、顔ははっきりと思い出せる。

 子どもとも大人ともつかない、しかし整った顔立ちだった。

 その美しさを形容するのに、”美女”というには足りないほどの――。

 漁師をむさぼり食うなどとはとても思えなかった。

「海の女神、なんてことは――」

 さすがにないか、と言いかけた時、どこかで水が跳ねる音がした。

 彼は慌てて起き上がると、ボートから身を乗り出した。

 海面を覗き込む――が、やはり女の姿はない。

「休んだほうがいいんじゃないか? この漁が終わったらしばらく家でおとなしくしてろ」

「いや、でも……」

「心配するな。ひとり抜けたところでどうってことねえよ。その代わり元気になったらばりばり働いてもらうからな!」

 気を遣わせまいとしてか、仲間は大仰に笑った。

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