3.世界の心臓


 掛け布団が床に落ちた。空気に触れて、足の指先が急速に冷えていく。寝返りをうつたびに擦れるシーツの音も耳障りで、シトは身体を起こした。


 窓の外は薄暗く、夜がまだぼんやりと残って溶けている。

 ずっと寝ていたせいで、頭の奥が騒がしく、ずきずきする。まるで脳内で音楽隊が演奏をしているようだ。


 外の空気が吸いたくなって、シトは部屋を出た。赤いカーペットが敷かれた長い廊下をまっすぐ歩いていく。窓からもれる淡い月明かりがカーペットの端につけられた金色の装飾をきらきらと照らしていた。


 廊下を歩いて行った先に、茶色の重々しい扉があった。そっと開けて外に出る。途端に、顔面に勢いよく風が吹きつけてきた。


 扉の外には、左右に広がる何もない殺風景な庭。一軒家が建てられそうなほどの広さがあった。一面に生える緑が風に吹かれてさらさらと音をたてる。そして、扉から数十メートルまっすぐ歩いていった先には、銀色に光る鉄格子の門があった。


 その門に近づいて、シトは思わず息をのんだ。驚きで、脳内の音楽隊が一斉に演奏をやめる。


「これ……っ」


 鉄格子の向こうに広がるのは、黄土色の大地ではない。見下ろすと、そこにあったのは、白く、不確かで、ところどころ透明な雲だった。雲が流れて視界が開けると、夜の闇が沁み込んだ広大な海が目に飛び込んでくる。


 こんな高さから、海を見下ろすのは初めてだった。


 滞っていた思考回路がやけにスムーズに働いて、ひとつの答えにたどりつく。


「ここって、もしかして……」


「空の上です」


 夜の空気によく似合う澄んだ声がシトの答えを肯定した。


 振り返ると、いつの間にかエメルがシトのすぐそばに立っていた。

 エメルは先ほどシトの部屋にいた時と同じ隊服姿だった。胸元の左上あたりにつけられた金色のカメオがきらきらと輝いている。カメオにはカルディア国の国花が描かれていた。


「マ神に狙われないように、私たちカルディア隊の本部は常に空の上を移動しているんです」


「移動って、こんな大きな建物をどうやって」


 シトはカルディア隊の本部を仰ぎ見た。汚れ一つない真っ白な壁に三階建ての建物。屋根は赤く、天を突きさしそうなほど尖っている。建物というより、城といった方が近い。呆気にとられるシトを横目に、エメルは微笑みを崩さない。


「神人の力です。今度紹介しますね」


「は、はあ……」


「それで、シトくんはこんな時間にこんなところで何を?」


 シトの疑問はあっさりと流され、代わりに穏やかな微笑みとは裏腹に、探るような視線が投げかけられる。

 エメルの透き通った瞳に、酷い顔のシトが映って揺らいでいた。

 その視線から逃げられる気など到底せず、シトは重たい口をゆっくりと開く。


「……エメルさんの戦う意味ってなんですか? その、十二神人の使命とか本能とか、そういうの関係なく……」


「どうして、そんなこと聞くんですか」


 沈んだ心をそっとすくいあげるような優しい声色は、どこかルーアスに似ていて、目玉がじわりと熱くなった。目のふちからこぼれそうになるそれを見られたくなくて、シトは足元に視線を落とす。そうすれば、雫とともにぽろぽろと、かさぶたが剥がれるように、本音がシトの奥から漏れ出てきた。


「お、俺、は……。叔父さんを殺したマ神リモゥを殺してやりたい。ポセイドンの望みも叶えたい。……でも俺は、弱い、から、何も成し遂げられずに死ぬかもしれない。そうなったら、俺の人生なんだったんだろうって、無意味だったって絶対に思う。それが分かったら、怖くなって、戦う意味も分からなくなりました……。カルディア隊に入る意味も」


 以前の何も知らない自分にはもうなれない。弱さも、現実の厳しさも、残酷さもすべてを知ってしまった。それを知ったうえで、戦う決断ができずに、ずっとその場に立ち尽くしてしまっている。


「君の人生が無意味なものに、私は思えませんけど」


 うつむくシトの顔をエメルがのぞきこむ。心臓の音がすぐ近くで聴こえた。吸い込まれそうなほど大きな瞳がシトを見つめる。森で初めて会ったときと同じ。エメルは、息をするのも忘れてしまうほどに綺麗だった。


「私は君に期待をしています。君が強くなって、私たちと一緒に戦ってくれること。君の持つ力は、マ神を圧倒する力にいずれなること」


「……でもその期待にこたえられなかったら」


「そんなことはどうでもいいです。そんなものは、ただの結果に過ぎない。大切なのは君の人生は期待されているということ。その事実だけで、君の人生はもうすでに、無意味ではないと思いますけど」


 エメルがふんわりと笑う。


「君の叔父さんも、君の人生に期待してくれていたんじゃないですか?」


 途端、シトの中にあの日の光景が流れ込んできた。シトを抱き寄せた血だらけの力強い手をまざまざと思い出す。


「世界を変えてくれ。本当の悪を滅して、君が君のままで生きられる世界にするんだ」


 そう言って、シトを突き飛ばしたルーアスはひどく優しい顔で笑っていた。


 思い出したくなくて、思い出すたびにシトの心を握りつぶす記憶。

 見たくないものばかり目に入ってきて、大切なものを簡単に見落としてしまっていた。


 シトは顔をあげて、エメルを見つめる。溢れる涙をそのままにした自分がエメルの透明な瞳にうつっている。シトはじっと自分を見つめた。まるでそこに答えがあるかのように。


「……叔父さんが、あの時、俺をマ神リモゥの前から逃がしたのは、俺じゃあいつに勝てないから、じゃなくて、俺に生きていてほしかったから……俺の人生に期待してくれていたから」


 あの時だけじゃない。ルーアスはシトの人生にずっと期待してくれていた。

 厄災だと忌み嫌われる十二神人のシトの人生に期待し、意味を与えてくれたのは、ルーアスだ。それは、昔も今も変わらない。


「シトくん」


 湖に波紋が広がる静けさに似た声で、エメルが呼ぶ。


「君の戦う意味って何ですか? 十二神人の使命とか本能とか、そういうことは関係なく」


「……俺の、戦う意味は」


 空が宇宙を溶かしたような闇から薄い青に生まれ変わっていく。どこかで鳥の鳴く声がする。エメルの白い肌がやわらかなオレンジ色に照らされる。しっとり忍び寄るような風が、いつの間にか軽やかにスキップをしながらシトとエメルの間を通りすぎていく。


 何度だって朝は来る。何度も迎えたはずの朝。

 けれど今日は、産まれたばかりの赤ん坊のような、激しい興奮と高揚がわき上がって、シトの手はかすかに震えていた。うっすらと青い紋様も浮かび上がってくる。


 ああ、今なら言える。ちゃんと、言える。


「俺の戦う意味は、俺が俺のままで生きられる世界にすること。アントリーニ島の人達が大好きで、人が大好きだから、ずっと死ぬまで、みんなと仲良く暮らしたい。……だからっ!」


 シトは勢いよく頭をさげた。下を向いても、涙はもう落ちてこない。


「俺を、カルディア隊に入れてくださいっ!!」


 腹の底から出てきた声は朝の空に響き渡った。目覚めた太陽の眩しさに静かに吸い込まれていく。頭上でエメルが笑う声がして、ゆっくりと顔をあげた。


「もちろんです。君がやる気になってくれてよかった。何度も言いますけど、私も君に期待しているんですからね」


「あ……ありがとうございます! ……でも、もし俺があのまま悩んでカルディア隊に入るのを拒んだら、どうするつもりだったんですか?」


「そうなったら、君の爪を全部剥いだり、歯を全部抜いたり、舌をちぎったり。あらゆる手を使って、否が応でも君を入隊させましたよ」


 屈託のない笑顔を向けられて、シトの心臓がひゅっと音を立てて萎む。

 絶句するシトをみて、エメルは笑顔で首をかしげながら、「冗談ですよ?」と片目をつぶってウィンクしてみせた。


(ぜんっぜん冗談に聞こえねえ……)


 エメルはルーアスと同じく、常に穏やかに笑っている。けれど、ルーアスと違うところがあるとすれば、それはエメルの特徴的な瞳の奥に氷のような冷気を感じるところだ。笑顔を鎧のようにして真意を隠しているだけで、彼女が発する言葉のひと粒も嘘はないような気がする。


 カルディア隊の隊長であり、すべての十二神人の上に立つ者だ。只者であるはずがないのは分かっていたつもりだった。


 暗闇がずっと続く底の見えない恐ろしさにシトは思わず乾いた唇をなめた。


「……今、世界の中心にいるのは人間でも十二神人でも十二神でもなく、マ神です」


 エメルがすっと目を細め、産まれたばかりの太陽を見つめる。


「マ神を共に滅ぼしましょう。そして、十二神人わたしたちが世界の心臓になるのです」


 やわらかな光がシトとエメルを包みこむ。ずっと下に見える海の白い波が太陽に照らされて星のように輝く。


 世界の心臓。

 想像するだけで、胸が震える。瞳の温度がぐっと上がる。



 眩しすぎるほどに光り、熱く燃える丸い太陽。


 それはまるで、この瞬間のシトの心臓そのものだった。




















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