Ⅱ.出逢い

1.神人




 やさしい花の香りがした。

 そっと目を開けると、パズルのピースがぴったりとはまるように、黒い瞳の少女と目が合った。少女は互いの息がかかりそうなほどの至近距離で、シトの顔を見つめていた。


「あ、起きましたよ」


 少女が顔を遠ざけ、背後を振り返る。


 目覚めて早々、心臓が生き物のように忙しなく騒ぐ。身体がいまだに火照っているのを感じながら、シトは自分がベッドに横たわっていることを知る。


 六畳半ほどの広さにベッドと机があるだけの殺風景な部屋。

 シトの部屋ではない。全く知らない場所だ。


 シトが横たわるベッドのそばの椅子には、先ほどシトの顔を見つめていた少女と、その背後には森で兵士をあっという間に殺した女が立っていた。

 女はシトと目が合うと、にっこり微笑む。


「よかった。シトくん、もう十日間も寝たきりだったんですよ」


「は、はあ……えっと」


 何から聞けばいいか分からない。

 ここはどこで、彼女たちは誰なんだろう。

 それに、どうして自分の名前を知っているのか。


 明らかに混乱しているシトをみて、女がくすりと笑った。

 大きな銀色の輪っかの耳飾りが軽やかに揺れる。


「ひとつずつ説明しますね。まず、彼女がぼろぼろの君を治療してくれたんです」


 彼女とよばれた黒髪の少女はシトからすっと視線をそらした。

 黒く長い髪を頭の高いところで、左右に結っている。

 目じりが少しつりあがっている上に、表情が乏しいせいか、どこかとっつきにくい印象があった。シトより少し年上にみえる。


 シトは自分の身体をみて、言葉を失った。

 あれだけ銃で撃たれたのに、痕がひとつも残っていない。

 戦う前の、傷一つない焼けた肌に戻っていた。


 治療とはいえ、あれほどの大けががたった十日でここまで綺麗になるものだろうか。


「これ、本当に、人の力で」

「人の力じゃないです」


 シトの言葉を女が遮った。

 黒のグローブをはめた手で、髪を小ぶりな耳にかける。


「アスは神人しんじんですから」

「し、神人……?」

「神人は、オリュンポス十二神以外の神の力をもつ人間のこと。十二神人と違うのは、神が身体に宿っているのではなく、神そのものの生まれ変わりってところですかね」

「神の、生まれ変わり……」

「はい。アスはアスクレピオスという医術の神の生まれ変わりなんです。彼女の力を使えば、どんな怪我でも治せるんですよ。あ、もげた腕とかは無理ですけど」


 身体を起こして、アスと呼ばれた少女を見つめる。


 神人。神の力をもつ者が十二神人以外にもいたとは知らなかった。


「おい、ポセイドンは知ってたのかよ……」


 小声で自身の中に宿るポセイドンに聞く。

 すると頭の内側から声が返ってきた。


「ああ、当たり前だろ。あの頃はオリュンポス十二神以外にも神はうじゃうじゃいたからな」

「その生まれ変わりが今も生きてるって、なんで教えてくれなかったんだよ」

「聞かれなかったからだが?」


 さも当然といわんばかりの口調に呆れる。ポセイドンは基本的に自分の知る情報を積極的にシトに話そうとはしない。カルディア隊の話も、ルーアスが口にして初めて実は所属していたことがあると暴露したくらいだ。


(神ってほんと何考えてるかわかんねえな……)


 心で大きなため息をついたところで、アスが椅子から立ち上がった。


「わたし、もう行きますね。彼も、もう大丈夫そうなので」

「はい。お疲れさまでした」

「では」


 アスは女とシトにそれぞれ頭を下げると、部屋を出ていこうとする。


「ま、待って!」


 シトが呼び止めると、アスが無表情に振り返った。


「あ、えっと……ありがとうございます。俺の怪我、治してくれて」

「いえ。仕事ですので。では」


 シトの言葉に、眉一つ動かさないまま、アスは部屋をそそくさと出て行ってしまった。

 あまりにも素っ気ない態度に、初対面にして嫌われてしまったのかと不安になる。

 額に汗を浮かべるシトをみて、微笑みながら、女が先ほどまでアスが座っていた椅子に腰を下ろした。

 長い脚をゆっくりとした動作で組む。


「気を悪くしないでくださいね。アスは誰にでもああですから。あと、紹介が遅れました。私はエメル・キッダ。君と同じ十二神人で、カルディア隊隊長です」

「はっ!?」

「あとここはカルディア隊の本部。私が森から君をここへ連れてきました」

「はあああああああ!?」


 衝撃の事実の連続に、シトは病み上がりとは思えないほどの大きな声をあげた。エメルはシトの突然の叫びに驚く様子もなく、ただニコニコとして笑顔を崩さない。


 シトは足りない頭で、必死に今自分が置かれている状況を整理し始めた。

 散らばっている、色も形も違う積み木を丁寧に積み上げていく。


「え、ええっと……カルディア隊隊長のエメルさんが俺を助けてくれて、俺は今カルディア隊の本部にいて……」

「うんうん」

「ていうか、カルディア隊って今でもあったんですね。てっきりもう伝説みたいな存在になてるのかと」

「うーん、まあ伝説みたいなものでしたけどね。ここ数年で、私が隊を復活させました」


 それでここからが本題ですけど。


 エメルが長い脚を組み替えた。透明な瞳がシトを射抜く。桜色の唇は常にゆるやかな笑みをこぼしているが、瞳の奥は全く笑っていなかった。

 まるで喉元に刃を突きつけられているかのような緊張感。

 刃先に触れないよう、慎重に、シトは唾を呑み込んだ。


「私、十二神人を見つけるために色々な島を探し回ってたんです。その中でアントリーニ島を訪れて、森で死にかけの君をみつけた。……最後の十二神人を」


「最後の十二神人?」


「はい。君以外の十二神人はみなカルディア隊に属していますから。他の方たちはあらゆる手を使って、見つけて、隊に入ってもらいました。けど、自由で勝手で粗暴なポセイドンだけはなかなか見つけられなくて……。それでもポセイドンはオリュンポス十二神の中でも三番目の強さを誇る。絶対にほしい存在だったんです」


「おいこの女、今さらっと私の悪口言ったろ」


 頭の内側をポセイドンがこつっと叩いた。

 エメルのいう事は何も間違っていないので、シトは否定せずに話を聞き続ける。


「ねえシトくん。カルディア隊に入って、マ神を排除するために、私たちと共に戦いませんか? オリュンポス十二神がもう一度、真の神の座に返り咲くのです」


 エメルの言葉はひどく甘い蜜のようだった。


 カルディア隊に入って、マ神を滅ぼす。そのために、シトは稽古を続けてきた。

 今や存在するか分からないとまで言われていたカルディア隊が実在し、その隊長と名乗る女がシトに直々に隊に入らないかと声をかけてくれている。


 ルーアスと別れる前のシトなら、考える間もなく、即決していただろう。


 けれど、今は喉の奥に大きな石が詰まったように、言葉がすぐに出てこない。唾を呑み込むたびに、苦い味がする。


 しばらくの沈黙の後、シトは重たい口をそっと開いた。


「すみません。……少しだけ考えさせてもらってもいいですか」


 エメルの透明な瞳がかすかに見開かれる。しかし、すぐに目じりを下げてにこりと笑う。


「分かりました。また明日、答えを聞きに来ます。まだ病み上がりですし、今日はゆっくり休んでくださいね」


 エメルがゆっくり立ち上がり、シトに手を振って部屋を出ていこうとする。


「エメルさん」


 扉が閉まる直前、シトが呼びかけた。


「森で……助けてくれてありがとうございました」


 頭を下げると、エメルが笑う気配がした。


「お大事に」


 それだけを残して、ぱたんと扉が閉まる。

 一人になった瞬間、感じないようにしていた孤独が急に群がってきた。

 胸が苦しくなって、もう抱えきれないというように、ぽつぽつ涙が流れては落ちる。


 ルーアスは、殺されただろう。

 軍人といえど、人間であるルーアスがマ神に敵うはずがない。


 では、スイアは? スイアはどうなったのだろう。

 ルーアスを殺して、シトを追い詰めて、声高らかに笑っているだろうか。

 幸せな顔をして、今も島のどこかで生きているかもしれない。


 それでも、シトの中にスイアへの憎しみや怒りは全くなかった。


(逆の立場だったら、俺だって……同じことしたかもしれない)


 ひどく寂しいのに、お腹が楽器のように鳴る。

 それでも、何かを口にするにはあまりにも気分が悪い。


 シトは枕に顔をうずめ、布団をかぶった。


「シト。夕飯のムサカができたぞ。一緒に食べよう」


 聞きなれたあの優しい声は、もう世界のどこにも存在しない。























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