18.神話の始まり
「う、うそだろ……」
もう弾丸の出ない銃の引き金をカチカチと鳴らしながら、兵士が全身を震わせた。
「何をしている! 早く弾を装填しろっ!」
「お前、この十二神人の力が何かわかっていないのか!?」
「はあ!?」
「こいつの力はオリュンポス十二神の中でも、三番目の強さをもつ……海神ポセイドンだっ!!」
弾切れで銃撃がやむ。その一瞬を狙い、水の壁を突き抜けて、シトが二人の兵士に向かってきた。シトの投げた
「あ、あ、足止めなんて無理だ……無理に決まってる!」
仰向けで倒れた仲間の死に顔をみたあと、兵士は木から木へ渡ってシトから逃げる。
銃器に頼り切った人間が勝てる相手じゃない。
酸素の行き届いていない頭に浮かぶ確信。
人間であるマ神兵はこんなにも弱く、命の価値を吟味する間もなく、死の淵に立たされる。
結局、人間は神には勝てない。
「あああああああああああああああああ!!! ゆ、ゆゆゆゆゆゆゆるし、ゆる、ゆるし、しでくださいいいい!!!」
喉が裂けるほどに叫んだ。冷たい雨音が死神の足音にきこえた。
シトは兵士に向かって指さす。
「Ψ・海の狩人(ヴェナーティオ)」
逃げる兵士の足元から波が生まれる。その波が足に絡まり、渦になって兵士に巻き付く。渦が兵士の肉塊を完全にすりつぶし、初めからそこには何もなかったかのようにあっさりと消えていった。
シトはがくっと地面に膝をついた。顔中に大量の汗をかき、目は充血している。肩を上下に動かさないと、まともに息が吸えない。指先が痙攣していた。
「シト。大丈夫か」
少女――ポセイドンの声がきこえる。シトはうなずく。
現実世界に干渉することはできず、神の力を持つ者以外には姿の見えないポセイドンはその性質を活かして、木陰に潜む兵士を見つけてシトに居場所を教えていたのだ。
まだ敵が潜んでいないか見てくると言って踵を返し、ふとシトに振り返った。
「……シト。神法を使うのはあと一回だけにしておけ。今のお前じゃ身体が先にダメになる。
「わかった」
乱暴に汗をぬぐって、シトは立ち上がる。
その時、シトの右肩を弾丸が突き抜けた。
「シトっ!!!」
シトが神法で反撃する間もなく、弾丸がシトの身体にいくつも穴をあける。両肩、両足首、右太もも、胸。シトの身体は大きな木の幹にたたきつけられた。うなだれ、口から赤い血が流れる。喉の奥が跳ねて、勢いよく血が飛び出た。
木の陰から二人の兵士が現れた。ゆっくりとシトに近づいてくる。
「よくも、俺たちの仲間を殺してくれたな、厄災」
「……殺してやる殺してやる殺してやる」
シトへの殺意が二人の兵士の瞳を濡らしていた。
唇を噛みしめ、涙を流している。仲間が死んだことへの憂いか、それとも厄災を目の当たりにした恐怖か。混じりけのない殺意だけが確かにシトに向けられていた。
(ああ……俺、死ぬのか。こんなところで)
シトの頭はいやに冷静だった。訪れる死を、何の抵抗もなく受け入れようとしている。
アントリーニ島の丘でみた夕日が沈む光景。死はそれに似ている。
必ず訪れ、海に呑み込まれるように静かで、厳かで、なんと美しい。
自分が死んだ後にやってくる暗闇の中で、後悔だけが星のように輝く。
(結局、俺、何にも成し遂げられなかった……俺の人生って、なんの意味があったんだろ……)
ルーアスの最期の言葉さえも守れない。
死ぬほど悔しくて、悲しくて、苦しいのに、涙ひとつも流れない。
隣では、ポセイドンが切羽詰まった表情でシトの名を呼んでいた。十四年も共にいるのに、こんなに焦っているポセイドンの顔をみるのは初めてだった。
「シト、シト。逃げないと、殺される」
ポセイドンはシトに声をかけながら悟った。
やはり、ダメだった。
シトを死なせないために、ほとんど使ったことのない神の力を無理やり使わせた。
まだ身体が力についていけない。体力の消耗は顕著だ。
逃げないと。
そう言いつつ、神法も使えない満身創痍のシトがここから逃げるすべなど、どこにもないことはとっくに分かっている。
純真無垢な子供のように、ポセイドンはひたすらにシトの名前を呼び続けた。
シトの黒目が微かに動く。
「……ポセイドン、逃げろ……」
「は」
「今なら、逃げられる……」
ポセイドンが取りついているシトの魂が薄れていくのを感じた。
十二神と十二神人は魂でつよく結びついている。しかし、十二神人の魂が弱まった時、十二神は従属関係だった十二神人の中から抜け出して、一方的に魂のつながりを断ち、逃げることができる。
そのようにして、二百年近く十二神は生き延びてきた。たくさんの十二神人を犠牲にして。
もう目の前のシトの魂は息を吹きかければ消えてしまいそうなほどに脆く儚い。
今ここでシトの中から逃げなければ、ポセイドンもろとも死んでしまう。
そうなれば、マ神の思うつぼだ。
(はやく、魂のつながりを切らないと、私がここで死ねば、オリュンポス十二神の復活は……)
「はやく……逃げろ、ポセイドン……」
シトの反撃を警戒してか、兵士たちはゆっくりとした歩調で進んでくる。
一分もしないうちにシトは殺される。
(逃げないと、逃げないと。私まで)
ポセイドンは海の中へ歩いていく。波が揺蕩い、ポセイドンの足首を濡らす。
海のうえに浮かんだ淡い水色の灯をポセイドンは抱きかかえた。
「嫌だ、逃げたくない」
銃口がシトの額に突きつけられた。引き金に力がこもる。
「しねえええええええええええええ!!!!」
「だって、お前は、私の――」
神の慟哭をあざけるように、無情にも銃声が雨音をかきけして森に響き渡った。
〇
目の前で何が起こったか分からなかった。
突きつけられていたはずの銃口から飛び出した弾丸は激しい音とともにシトの頭上の幹に埋まった。
シトに銃を突き付けていた兵士は縦に真っ二つに裂けて絶命していた。
その背後に大鎌を持った女が立っている。この場には到底そぐわない笑顔で。
(いつ……現れたんだ)
女はたった一瞬のうちにどこからともなく現れた。呆気にとられていたもう一人の兵士がはっと我に返り、銃を女に向けた。瞬間、撃つ暇もなく、まばゆい光の柱が兵士の真上に降ってきた。光の柱が消え、兵士は焦げた死体に変わる。
女は兵士の死体に見向きもせず、笑顔のまま、シトの前にしゃがみこんだ。
持っていた大鎌が黒のグローブをはめた手から素早く消える。
肩のあたりまで伸びた淡いクリーム色の輪郭をとかした絹のような髪を、ひどく緩慢な動作で、小さな耳にかけた。白い肌と伏し目がちな瞳が印象的だ。
まつ毛の下にのぞく瞳は、ガラス玉のように透き通り、色が一切ない。
全てをなくし、全てを映す透明だった。
そして女は身に浴びた痛みを忘れてしまうほど、美しかった。
「此処にいたんですね」
「……あ……んた……は……だれ……」
ぐらりと身体が右側に倒れる。もう目を開ける力もない。暗くなる世界で、ポセイドンのシトを呼ぶ声だけが聴こえていた。
―――――Ⅱ章へ続く。
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