10.大切な人
「美味しかったなあ、ムサカ」
シトは大きく膨らんだ腹を撫でた。まだ口の中にムサカの味が残っている。人気店ということもあって、かなり行列ができていたが、並んだ甲斐があったと心の底から思えるほど、店のムサカは絶品だった。
「そうだね。トマトソースの味もしっかりしたし、赤ワインの風味が最高だった。あれを食べてしまうと、私の料理もまだまだだなと思ったよ」
「何言ってんだよ。たしかに店のムサカは美味かったけど……俺は叔父さんの作るムサカが一番好きだぜ!」
「ははは。嬉しいこと言ってくれるなあ。ありがとう、シト」
隣を歩くルーアスが嬉しそうに顔をほころばせる。
その向こうで、灰色の重たい雲の中がごろごろと蠢いている音がした。まだ夕方なのに、空も街も一切の色を失って灰色に沈んでいる。今にも降り出しそうな雨を警戒して、今日はどこもかしこも一斉に店じまいをしてしまっていた。市場が開かれる騒がしい広場も、人が数人いるだけでひどく静かだ。
アントリーニ島自慢の夕日が沈む美しい光景も、分厚い雲に邪魔をされて拝めそうにない。
「あーあ。叔父さんと一緒に夕日みたかったなあ。この坂あがって少し行ったところの丘からみえる夕日が最高なんだ。人も全然いないし、穴場なんだよ! 俺しか知らない!」
「へえ。それは気になるな。今度、天気がいい日に一緒に行くか」
「お、おうっ! 絶対行く!! 約束なっ!」
顔を紅潮させ、声が上ずっているシトをみてルーアスの笑いがこぼれる。
たわいもない話を続けながら歩いていると、ふと、ルーアスの視線がシトではない別の場所に止まった。
「……叔父さん?」
不思議に思い、シトはルーアスの視線の先をゆっくりとみた。
そこには、一組の男女がいた。広場の端っこにあるベンチに座り、顔を赤らめて少し緊張した様子で何か話している。二人が座る間には微妙に距離があって、仲睦まじい様子、とはいえない。けれど、お互いを幸せそうに見つめていた。
二人の纏う雰囲気をまともに見続けられず、シトは顔をそらした。ルーアスはまだ二人を見ている。ぐいっと、袖を引っ張れば、はっとしてようやくシトの方をみた。
「どうしたんだよ、叔父さん。あの人達、知り合いなのか?」
「ああいや……そういうわけじゃないんだ」
「ふうん、じゃあもう早く行こうぜ!」
足早に歩き始めれば、ルーアスが大股ですぐに追いついてくる。追いついてくるなり、シトの顔を覗き込んできた。
「シトは好きな子とかいないのか?」
「は、はっあああっ!?」
まるで自分ではないような甲高い声が出てしまった。静かな広場にシトの声が響き渡る。シトは餌をねだる鯉のように口をパクパクさせ、言葉を探した。
全身が一気に嫌な熱を持ち始める。
「い、いいいいいるわけないだろ! そんなやつ!」
「なーんだ、いないのか。じゃあ好きな子ができたら、私に一番に教えてくれよ」
「はあああああ!? 教えねえしっ! てか、できねえしっ!」
ムキになって反論しても、ルーアスは面白そうに笑うだけだった。
ようやく気付く。これはいつものルーアスのからかいだ。毎回シトばかり恥ずかしい目に遭うのは不公平ではないか。
(……こうなったら仕返ししてやる)
ルーアスの余裕綽々な笑顔が焦りと恥ずかしさで消えることを想像するとわくわくした。
「叔父さんはどうなんだよ。好きなやつとかいないのかよ」
シトが知る限り、ルーアスが姉のラルラ以外の女性のことを話している場面をみたことがない。
ルーアスを知る島の人たちも「くそ真面目な軍人だったよあいつは」以外のことは言わないし、もちろん結婚もしていない。ルーアスのそういった事情は本当に謎だ。
この間の島一番の美人、アイビスからのラブレターもどうやら受け取るだけ受け取って進展はなかったようだし。(とシトは思っている)
どうせはぐらかされるだろうと思い、次の一手を考えていると、
「いたよ。ずっと前に」
「え?」
となんともあっさり答えられてしまって、シトの方が素っ頓狂な声をあげてしまった。一切照れる様子も焦った様子もなく、ルーアスは笑顔を浮かべたまま、真っすぐに前を向いている。
「すごく好きな人だった」
「……へ、へえー。結婚、しなかったの?」
「ああ。しなかった」
「なんで?」
遠くで雷が鳴る。ルーアスが立ち止まって、シトをみた。
今の空のようだと思った。
揺すれば、すぐにでも雨が降り出しそうな空。
初めて見るルーアスの表情だった。
けれど、それはほんの一瞬ですぐにいつもの余裕を張り付けた笑顔に戻ってしまう。
「その人よりも、大切な人ができたから、かな」
冷たい風が吹き抜ける。
再び前を向いたルーアスをみて、シトは何も言えなくなった。意図的に塞がれていた穴を自分勝手に開けてのぞいてしまった気分だ。ルーアスのことは誰よりも知っているつもりだった。
十四年、自分を育ててくれた世界でたった一人の親。それでも、まだ自分はこの人の半分も知らないような気がしてきた。底だと思っていたのは、ただの大きな蓋で、その下にはシトの知る由もないルーアスの心が埋められている。ずっと奥深くに。誰も触れられない場所に。
それきり会話はなにもないまま歩き続けて、ようやく家がみえてきた。風が強くなって、木々がざわめきだす。
「雨に降られる前についてよかったな」
「……ああ」
ルーアスが門を開ける。
その時、顔面を殴るような風が吹きつけた。
かすかに香る血の匂い。
「おじさん、今」
「何か、様子が変だ」
ルーアスが庭の方へ走りだす。シトも付いていった。血の匂いが一層濃くなって、たまに腐敗臭みたいなものも混じって香ってくる。
庭に設置している牛小屋にたどり着いて、言葉を失った。
大切に育て、シトたちの生活の糧になってくれていたはずの牛たちは、すべて地面に力なく横たわり、血の渦の中で息絶えていたのだ。
「……これ……は」
動けないシトを置いて、ルーアスが蠅の飛び回る牛小屋を進んでいく。死んでいる牛のそばにしゃがみこむ。靴裏に赤い血がべっとりついた。
「……遊んでる」
「は」
「どの牛も傷跡は多いが浅い。殺すことが目的じゃない。遊ばれたんだ」
「……誰が、そんなことを」
身体が震える。
驚き、悲しみ、怒り。負の感情が混ざり合って、シトを乗っ取ってしまいそうだ。
頭が沸騰しそうになって、目の前がぐらぐら揺れる。
――だから気づかなかった。
「シト!!」
内側で聞こえた少女の声も、ルーアスの叫び声も。
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