9.絶望
いつだって真っ暗な闇の中で光ってみえるのは、母の優しい笑顔だ。ハープのような綺麗な歌声。海の凪ぎのような穏やかな瞳。自分の手を握るやわらかい手。
やわらかい手。
自分の手から力なく落ちる、大好きな母の、やわらかい、手――。
スイアは思わず飛び起きた。数秒かけて意識がはっきりする。ランプをつけたままのテーブルの上に置いてある時計は深夜の三時を示していた。
テーブルの上に広げっぱなしの分厚い書物と計算式や仮定を書き出したノートをみて、一気に記憶がよみがえってきた。寝るのもそこそこに書物を読むことにふけっていて、そこから考えうる仮定を書き出したところで、気付かぬうちに力尽きたのだ。
テーブルに突っ伏していたせいで、ノートの端にしわが寄っている。小さく舌打ちして、そのページを破り、ごみ箱に放った。しかし、破いた紙が大量にあふれるごみ箱にうまく吸い込まれるはずがなく、それはベッドの下へ力なく転がっていく。スイアはそれを気にもせず、自室の扉を開けた。
廊下に誰もいないことを確認して、台所へ向かう。棚からテキトーにコップを取り、蛇口をひねって水を飲む。乾ききった砂漠のような喉がうるおされていくのが心地よくて、三回もコップを満杯にして飲み干した。
流し台に手をついて息を吐くと、窓の外からかすかに声が聞こえてきた。そっとのぞくと、庭にシトの姿があった。木刀を一心不乱に振っている。
「ちっ」
見るんじゃなかった。猛烈に気分が悪い。コップを置いて、自室に戻ろうと踵を返す。
「頑張ってるだろう、シトは」
再び舌打ちをした。何の気配もなく、台所の入り口にルーアスが立っていたのだ。自分を待ち伏せしていたのだと悟る。
「私に勝つために必死だ」
ルーアスが照れくさそうに笑った。
何も反応せずに黙りこくっていると、ルーアスがスイア、とひどく落ち着いた声で名を呼ぶ。
「シトは、お前にひどい態度をとられても、お前のことを心配している」
「はっ。化け物が一丁前に人間のふりか。笑えるね」
「……お前の気持ちもわかる。けれどシトは、お前の母さんがこの世に残した最期の希望だぞ」
その言葉を聞いた途端、血が勢いよく沸騰した。置いていたコップを手に取り、ルーアスに向かって投げつける。
しかし、ルーアスはいともたやすくコップを片手で受け止めた。緩慢な動きで、コップをダイニングテーブルに置く。何度目かの舌打ちをする。
「取り消せ」
「何を」
「あの化け物を、母さんの最期の希望って言ったことを、取り消せ。今すぐに」
希望なわけがない。あの化け物は、スイアから世界を奪った。母に抱かれるやわらかな世界を。
「取り消さない。事実だからだ」
「あんただって、あいつに大切なものを奪われた被害者だろ」
ルーアスが真っすぐスイアを見ている。もう何度こうして、シトのことでルーアスと言い合ってきただろうか。何も知らないあいつは呑気に毎朝牛乳を売りに行っている。ひどく笑えるし、ひどく殺してやりたい。
あいつに神の力がなければ、自分が真っ先に殺したのに。
「私はシトに何も奪われていない。与えられるばかりだ」
「誤魔化すな。軍人として最高位の役職を与えられるはずだったのに、母さんが死んで、あいつを育てるために軍人を辞めたんだろ」
母がいた頃のルーアスは今とはだいぶ印象が違う。豪快で、大雑把で、瞳の奥に煌めく闘志を燃やしていた。正義感で溢れていたルーアスにとって、島と長を守る軍人という役目から離れることはひどく苦しい選択だったに違いない。実際に拳を何度も壁にたたきつけて、声を押し殺して泣いている姿もみたことがある。軍人を辞めてすぐの頃は、母が死んだときと同じくらい泣いていた。
「確かに私は軍人を辞めざるを得なかった。だけど、それはシトに奪われたんじゃない。私が決めたことだ。軍人をやめて、スイアとシトを育てると決めた」
「……僕の親はラルラ・ラウルス。彼女だけだ」
初めてルーアスの表情に影が落ちた。毅然が剥がれて、目を伏せる。立ち尽くすルーアスを押しのける。
「スイア」
呼び止められた。無視しようとすると、目の前に手紙を差し出された。
黄色い封筒に流れるような字。ハング・マサリー。スイアが師事する教授からの手紙だとすぐに分かった。手に取ろうとして、ひょいっと避けられる。
「これはお前宛じゃない。私宛だ」
「は? なんでマサリー教授があんたに……」
意味がわからなかった。気難しく才能のある者としか関わろうとしないマサリーがなぜルーアスに。互いに名前は知っていても、面識はないはずだ。
「……手紙に書いてあった。お前が教授のもとに通うことをやめる数日前、妙なことを聞いてきたと」
動揺を隠すようにあえてルーアスを真正面から睨みつけた。
ルーアスの額にうっすら汗がにじんでいる。
「変なことを考えているなら、今すぐにやめなさい」
「ははっ、変なこと? やめてくれ。僕はいたって正常だ。正常に、それについて研究をしているだけだ」
「そんなことをしてもお前の母さんは喜ばない」
「母さんの感情を勝手に決めるなよ。僕はやるんだ。やってやるんだ」
吐き捨てて自室へ戻る。
勝手に自室に忍び込まれて大事な文献を荒らされないように、常に自室に閉じこもっておかねばならない。馬鹿なシトはともかく頭もきれて力もあるルーアスに邪魔をされれば厄介だ。それなのに、ルーアスにはおよそ自分が何をしようとしているか知られてしまった。
一人になると急に焦燥感が喉から這い上がってきて、親指の爪を訳もなく食んだ。マサリーにこの研究の可能性を聞いて、もうすぐ三年が経つ。しかし、滅多に外に出ないうえに、たまに行く街の小さな図書館でかき集めた文献ごときでは、この研究が成功する前にスイアの方が先に死んでしまいそうだ。
ルーアスが邪魔をしてくる可能性、文献や情報の少なさ。
どうするべきかと頭を悩ませ、研究を続けていたところで、シトに声をかけられた。
トイレから出た瞬間にぶつかった。虫唾が走る。シトもルーアスも外に出ている今なら自由に動けると思ったのに。さっさと自室に戻ろうとすれば、街に行かないかなんて馬鹿なことを言ってきた。それだけなら、まだよかった。無視できた。
けれど、シトはスイアを外の世界を知らない者と決めて、自分の知っている街の風景を楽しそうに話し出した。
脳内に、母と手をつないで街を歩いた記憶が鮮明に浮かび上がってくる。まだ何も色褪せていない鮮やかな記憶。母は街へ出かけるのが好きだった。スイアは人混みも外も嫌いだったが、母の笑顔がみたくてついていった。
母の好きなものを、母との大切な想い出を、どうしてお前に語られないといけないんだ。
怒りが電流のように全身を走り抜けて止まらなかった。自分でも信じられないほどの力でシトの首を絞めていた。
今まで静かに腹の底で集めていた殺意たちが両手に籠っていく。細いシトの首は簡単に潰せてしまいそうだ。神の力を持っているから殺すのは困難だと思っていたが、案外あっさり殺せるかもしれない。
頭に酸素が回っておらず、自分でも何を口走っているのか分からなかった。
けれど、これだけはシトに与えたい絶望だとずっと取っておいた。
それは絶対に言ってはいけないと、遠い昔、ルーアスに口止めされた。
簡単に言うわけがない。シトの心を一瞬で砕く絶望の言葉。大事に取っておいた。
シトが死ぬときに思い浮かべるのはこの世界の楽しかった思い出でも希望でも幸せでもない。
自分なんて死んで当然だと思う特大級の絶望だ。
絶望にさいなまれながら死ね。
死ね。
死ね。
死ね。
シトの唇がかすかに動く。
「……や、めっ……ろっ」
どこまでも馬鹿なやつだ。せっかくのチャンスを棒に振るわけがないだろう。
絶望を与えてやる。
お前が絶望を与えたように。
しかし、寸でのところでルーアスに止められた。
あと少しで殺せた。理想的な形で殺せたのに。
殺意が引いていくかわりに、とてつもない悔しさが押し寄せてきた。
ルーアスに思いきり殴られても、痛みさえまともに感じないほどの悔しさ。次は笑えてきた。下腹から蛇がゆっくり這い上がってくるように、笑みがこぼれて止まらなくなった。
奪った事にも気づかずにのうのうと生きる馬鹿な化け物も、その化け物を家族だと認識する可哀想な人間も、どちらも同じだけ不快だ。
存在するだけで、スイアを不幸にする。
シトもルーアスも殺してやる。
絶対に、殺す。
あの騒動から二週間後、シトとルーアスは昼過ぎから街へ出かけるようだった。
「叔父さん、洗濯物取り込んどいたぜ」
「ありがとう。夕方から久しぶりに雨が降りそうだからな。海が荒れないといいけど」
「嵐みたいな雨じゃない限り大丈夫だって。早めに行って早めに帰ってこよう」
「そうだな」
楽し気な会話が聞こえた後、スイアの部屋の扉が二回ノックされた。
「スイア。街に行ってくるよ」
ルーアスは出かけるとき、律儀にスイアに伝えてくる。あの騒動からルーアスとも、もちろんシトとも話していない。
スイアの大して栄養が含まれていない細い腕でもシトの首は容易に締めることができた。
神の力を持つ者が聞いてあきれる。これなら一人で殺せそうだが、油断は禁物だ。十二神人に関する情報をスイアは多く持っていない。どのような力を使うのか分からないまま、殺しにかかるのは危険だ。二週間前のようにうまくいくとは限らない。
玄関が完全に閉まり、二人の話し声が聞こえなくなって、二時間が経った。のろのろと椅子から立ち上がり、薄手の上着を羽織って黒い帽子を目深にかかった。
玄関の扉を開ければ、分厚い雲が空全体を覆っていた。
昼なのに、影が落ちている。
雨に降られてしまったら面倒なので、足早に街に向かった。
徐々に建物が増えて音がうるさくなってきた。行きかう人に何度かぶつかりながら街を練り歩く。
首と視線を忙しなく動かす。
どこだ。
どこにいる。
市場の付近をぐるぐる回っていると、ひときわ大きな声が聞こえた。
声の方に近づけば、スイアの目的がそこにあった。
整列した集団を一人の男が先導する。男は右手に拡声器をもって声高らかに叫んでいた。
「十二神人を排斥しろ! この世界から厄災を滅するのだ!」
男に続いて後ろの集団が一斉に唱和する。拡声器も何も持っていないのに、三十人近くはいるせいか、声は街中に響き渡っていた。
「我々は、ハマルティアの会!!! マ神様に忠誠を誓い、十二神人を排斥するため尽力する者。何か十二神人に関して有力な情報を持っている者はいないだろうか!!!」
男の声にこたえる人間は誰もいない。うるさそうに耳を塞ぐ者もいる。
当たり前だ。マ神に忠誠を誓うと言っても、ハマルティアの会は思想が一致した民間の集団。
マ神直属の部下ではない。けれど歴史はそれなりに長いらしく、図書館にハマルティアの会に関する詳しい文献がいくつもあった。
なんとなく読んだので、ある程度は情報を知っている。
ハマルティアの会がごくまれにマ神に直接会い、十二神人についての情報を提供していることも、記録として残されていた。それを頼りに、街まで来たのだ。
目立つのを避けるため、すぐに声はかけず、集団のあとを後ろからついていく。
集団は街を周回すると、住宅街の方へ歩いていった。二階建ての白い建物の前で止まる。小さなベランダから赤々とした鮮やかなブーゲンビリアが垂れ下がっている。
先頭を歩いていた男が扉をノックすると、中からエプロン姿の女性が出てきた。次々に中へと入っていく。男が最後に中へ入ろうとしたところで、スイアはようやく声をかけた。
「あの」
男の灰色がかった瞳がスイアを見つめる。四十代くらいだろうか。近くで見ると、顔中に小さなしわが刻まれていた。うっすら髭も生えている。
「なんだ。君は」
「僕は、スイア・ラウルスといいます」
帽子を脱いで、少しだけ前髪をあげて顔をさらした。敵ではないこと、れっきとした人間であることを示すのがここでは一番大事だ。
しかし、男は警戒をとかずに、じっとスイアをみている。
「僕は、あなたたちに言いたいことがあって来ました」
「言いたいこと?」
ごくりと唾を呑み込む。とても甘い味がした。
「僕の弟は、十二神人なんです」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます