8.お前ごときのせいで



真夜中の練習を開始して三ヵ月が経った。


もともと温暖な気候のアントリーニ島でも少しだけ鼻の奥をつんとさせる風が吹き始めていた。けれど、身体は炎であぶられているようにひどく熱い。


視線を動かせば、目の前のルーアスも息をわずかに弾ませていた。真夜中の練習のおかげで、猪突猛進に攻めるだけじゃなく、相手の動きをとらえるための待ちの態勢をきちんととるようになった。頭の空白をなくし、情報をすべて敷き詰めていく。


息の乱れも大切な情報源だ。木刀を握る手に力をこめる。シトの微小な行動にルーアスの目が素早く反応する。

シトは大きく全身で、全力で振りかぶった。下手なフェイントはすぐに気づかれてしまう。だから限界まで、ルーアスを誘い込む。そう思いこませる。次のシトの動きはこれだとギリギリまで見せつける。ルーアスが物干し竿を握る手をわずかに変えた。


―――今だ!!


木刀の軌道を変えた。

空中で弧を描いて、無防備なルーアスの脇腹に思いきり滑り込ませた。


「うっ」


濁った声とともにルーアスがよろめいてその場に膝をつく。

そして木刀の切っ先を、額を指す寸前で止めた。

ゆっくり顔をあげたルーアスがいたずらっ子のように笑う。


「……強くなったな。シト」


途端に息が苦しくなって肩を大きく上下させた。頬が熱い。

シトは木刀を下ろし、天に向かって両手をあげた。


「やった!! 叔父さんに!! 勝った!!」


腹の底から声を出すと疲れと脱力感が同時にやってきて地面に寝転ぶ。草の青い匂い。すべて放り出した中で、それだけが鼻の奥までもぐりこんできた。

何百戦とやってきて、ようやく掴んだたった一勝。

これがシトが確かに強くなっていることの証明だ。

腹にシトの全力を浴びたルーアスはもうすでに立ち上がって、寝転ぶシトをにこやかに見下ろす。


「……さすが、お前の神様だな。教えの成果がちゃんと出ている」

「げっ」


がばっと身体を起こす。冷たい汗が背筋を伝った。


「知ってたのかよ……」

「当たり前だろう。私はシトの親だからね。お前が夜な夜な庭で剣を振るっていたのもばっちり知っている。戦い方のコツを神様に教えてもらってたんだろう?」


ルーアスにはすべてお見通しだった。

勝てたけど、なんだか腑に落ちない。

唇を尖らせていじけているシトの頭をルーアスが撫でた。


「それでも、ちゃんと教えられたことをモノにしたのは、シト自身の力だ。よくやったな。今日はシトのお祝いに街へご飯を食べに行こうか」

「ほ、ほんとうに!」


ルーアスは滅多にシトを外食に連れて行かない。おそらく、マ神の手下である兵士の監視や十二神人を敵視するハマルティアの会のことを気にしているんだろう。シトが仕事とはいえ街に牛乳を売りに行くのも、ルーアスはなかなか許そうとしなかった。結局、シトが外に出て人と関わりたいと何度も訴え、ルーアスが根負けし、やがて一人で街へ出ることを許したのだった。


しかし、今回は仕事以外で街へ行ける。しかも、ルーアスと共に。

勢いよく身体を起こし、シトは息を弾ませた。


「お、俺、あそこ行きたい! 街のおばちゃんたちに聞いたんだ! 中心地にムサカのすごい美味しい店ができたって。そこ、そこ! そこ行きたい!」


鼻息が荒くなって興奮で言葉がもつれる。ルーアスは優しく笑ったままだ。


「よし、じゃあそこに行こう」

「やった!」

「じゃあまずはお風呂に入ってきなさい。汗かいただろう」

「わかった、今すぐ入ってくる!」


数時間身体を動かし続けたとは思えない素早さで、シトは家に飛び込んだ。

気持ちが身体で大きく跳ねる。踊りだしたくなるほど嬉しい。ルーアスに勝っただけでなく、お祝いにルーアスと街へ出かける。牛乳を売るために一人で街へ出かけるのももちろん楽しいが、ルーアスと一緒はもっと楽しいだろう。喜びをこらえきれず、軽やかな足取りで浴室に向かっていると、どんっと何かにぶつかって足が止まった。


浴室の隣にあるトイレから出てきたのは、スイアだった。前髪の奥からみえるすべてを塗りつぶした黒い瞳がシトを見下ろす。

高鳴っていた胸が突然の土砂降りの雨に濡らされていく。芯の底から冷えて、シトは唇を震わせることしかできなかった。スイアは微かに顔をゆがめたが、何も言わずにシトの横を通り過ぎようとした。


「ま、待って」


気付けば、スイアの腕を掴んでいた。五つほど年上のスイアの腕はシトよりも細く、青白い。


「あ、あ、あのさ、兄ちゃん」


チャンスだと思った。ここでスイアと仲良くなれば、ルーアスが頭を抱えることもなくなる。


家族がひとつになれる。

自分が何とかする。


「あ、あとで、叔父さんと街にご飯を食べに行くんだ」

「……」

「すっごい美味しいムサカの店」

「……な……」

「兄ちゃんも、一緒にどう?」

「……るな」

「え」

「触るな!!!」


物凄い力で腕を振り払われた。シトを見つめるスイアの瞳は、お前が嫌いだと全力で叫んでいた。自然と足がすくむ。真正面から自分に投げつけられる嫌悪をどう受け止めたらいいか分からない。


「ご、ごめん」

「僕はお前なんかと違って忙しいんだ。二度と話しかけるな」


背を向けてスイアが自室に戻ろうとする。

ゆらりゆらり動く背中を見つめて、ぼんやりと考える。


(……このままでいいのか)


拳を固く握りしめた。足に力が入る。

いいはずがない。

このままでは、何も変わらない。


「……兄ちゃんは、外の世界を知ってる?」

「は」


スイアの足がとまり、シトを睨んだ。


「俺、牛乳を売りに街へ出かけてるんだ。こことはまた違った雰囲気で、にぎやかですごく楽しい。街の人はみんな優しいし、海はとても綺麗で、たまに音楽隊もいるんだ。すごく楽しい場所なんだ。俺は、街が大好き。だから、兄ちゃんも引きこもってないで……っ」


瞬間、後頭部に激しい痛みが伝わる。

次に、呼吸が搾り取られていく苦しさ。

青白い両手がシトの首を締めあげていた。壁に押し付けられているせいで、身動きがとれない。


「に、兄ちゃ……っ」


この細い手にこれほどまでの力があることに驚く。シトへの憎しみがスイアの力の源になっているのだろうか。

じわじわと滲む視界の向こうでスイアと目が合った。明確な殺意がシトを貫いている。


「なんでだ……」


怒気を孕んだ声が徐々に遠くなる意識の中で聞こえてきた。


「なんで何も知らない、化け物のお前が、そんなことを言うんだ!」


お前のせいで、お前のせいで。

ぶつぶつとスイアが何かを言っている。聞き取れない。目の前が暗くなっていく。呼吸ができない。

足元に落ちている木刀を少女が拾うのが視界の端でみえた。シトの首を絞めることに気をとられているスイアは何も気づいていない。少女が無表情にスイアの脳天をめがけて木刀を振り上げた。


(だめだ……。そんなことをしたら……)


声が出ない。唇を必死に動かす。


「……や、めっ……ろっ」

「お前ごときのせいで、母さんはっ……!」

「何をしているんだ!」


突然聞こえた声に少女が木刀を素早く廊下に放った。まるで最初からいなかったかのように音もなく消える。

靴を履いたままのルーアスがシトとスイアの間に割り込んできた。ルーアスに突き飛ばされたスイアは壁に身体を打ち付けその場に座り込む。気道が急に解放されて新鮮で刺激の強い空気が一気に入ってくる。

咳がとまらず、廊下についた手の甲に唾液が数滴落ちた。


「シト、大丈夫か」


ルーアスが背中をさする。次第に呼吸のリズムが整ってきた。空気が無味なものに変わっていく。シトの様子が落ち着いたのを確認して、ルーアスがスイアに歩み寄った。

そして、ゴンっと鈍い音が廊下に響く。ルーアスがスイアを殴った。スイアの白い頬が赤く染まる。


「どうしてこんなことをしたんだ」

「……」

「答えなさい」


しばらくして、スイアが肩を震わせた。徐々に声が出てきて、笑っているのだと気づく。


「なにがおかしい」

「……家族ごっこもここまでくると滑稽だな」


鷹揚に立ち上がったスイアの口端から血が出ていた。その血を乱暴に拭う。


「何が言いたいんだ」


ルーアスの目つきがさらに鋭くなった。少しでも身動きすれば、破裂しそうなほどの空気に包まれている。


「あんた正気か? よくこんな化け物と家族の真似事ができるな。僕には無理だ」

「シトは化け物じゃない」

「化け物だよ。厄災をもたらすこの世にいてはならない存在」


長い指がシトを指した。隠すように、ルーアスがシトの前に立つ。


「シトは化け物でも厄災でもない。家族だ」

「イカれてる」

「何でもいい。けど、姉さんも絶対に同じことを言う」


スッとスイアの表情から薄ら笑いが消えた。ルーアスの姉、スイアとシトの母親だ。母親の記憶が一切ないシトとは違って、スイアには母親と過ごした五年間がちゃんとあるのだろう。


互いににらみ合った後、先に視線をそらしたのはスイアだった。真っ暗な何もない虚ろな瞳で自室に戻っていく。ふと、前髪の下で視線が動いた気がした。一瞬だけシトをとらえ、扉が音をたてて閉まる。


その日は結局街へは行けず、シトの初勝利祝いは延期となった。

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